春の桜と紫陽花、形原神社で心安らぐひととき。
形原神社の特徴
立派な一の鳥居が出迎える、山中腹の神社です。
例祭日は4月第1日曜、桜と共にお花見を楽しめます。
ご祭神は埴安神、珍しい神様に出会える場所です。
名鉄・形原駅から山に向かって少し行ったところにある、この辺りでは最も大きく立派な社殿を持つ神社。巨大な白馬の神馬像が目を惹きます。
春は桜、初夏は紫陽花で有名な形原神社にて11月4日に神前式を執り行って頂きました。神社での式は親族だけで執り行う場合が多いとのことでしたが、普段アメリカに住んでいることもあり、海外からの来客も多かったため、是非日本の伝統的な結婚式とはどんなものかを知ってもらえたらという思いで、80名全員で参加させて頂きました。三々九度の盃や親族盃の儀では神酒を飲み交わし、両家が集まり1つの大きな家族になり、新しい絆がうまれ、とてもあたたかい気持ちになりました。夫は日本語が話せないので誓詞奏上は私が読み上げ、他の儀式も言葉の通じない夫の家族も神主さんが丁寧に親切に対応してくださり、本当にアットホームな式を挙げさせて頂くことができました。神社の敷地内まで自家用車や大型バスでも坂を登って来ることが出来るので、90歳になる祖母も参加することが出来とても喜んでもらえました。ありがとうございました。
立派な一の鳥居が気になるお宮さまです。縣社の石碑から、参道階段や灯籠も立派で、何よりもご本殿、拝殿が壮厳です。丁度、夏祓(日本国では、毎年6月30日に、その年の半年に身に溜まった穢れを落とし、残り半年の息災を祈願する神事のこと。神社には人の背たけよりも大きな茅の輪が据えられ、参拝者はここをくぐって厄除けを行います)にお詣りできました。合わせて、昭和天皇の三河湾の御歌碑や、先の戦争の御英霊がお祀りされています白山社と、東郷元帥揮毫の忠魂碑、三河地震の慰霊碑もありますので、是非ともお詣り下さい。
ご祭神はちょっと珍しい埴安神(はにやすのかみ)。社殿は戦後に復興された立派なもの。灯が沢山ぶら下がっています。隣に白山社がありますが、なぜか第二次世界大戦で亡くなった方の写真でいっぱい。大きな忠魂碑などもあり、戦争の雰囲気が濃い神社です。
護国神社と思うと近い末社に白山がありますが、中入ると戦時中の慰霊写真が沢山あります御朱印をお願いに社務所行くと「あーハイハイ」って顔されて対応された気持ちは分かります、只顔に出すのはなと。
形原あじさいの里からコミュニティバスに乗って、形原神社バス停へ。大きな鳥居を潜り、鬱蒼と茂る木々の中の参道石段を上がり、広い境内に到着すると、清々しさを感じる。訪れたこの日、夏祓いの祭事で朝から氏子さんたちが忙しく準備をしていて、そんな中でお参り。事前に連絡をしていたので、宮司さん?に御朱印をお願いし、お忙しい中、感謝✕2。
山の中腹にあり、鳥居から三河湾が見下ろせました。とても歴史のある神社で白山神社も隣に奉られ、戦争での戦死者(軍人)の遺影が掲げられていました。馬神の像は素晴らしいもので、この神社を象徴している像でした。
階段を登った先には、広い境内、青い空、深い緑の山々🌄振り返ると遠くに三河湾🌊訪れて良かったなと感じる場所です。
3/29桜祭りの旗を見かけたので行ってみました。ちょうど見頃でとても綺麗でした。山頂まで5〜10分位歩きますが、素晴らしいですので是非行ってみて下さい。なだらかな坂なので、ゆっくり行けばご年配のかたでも大丈夫だと思います。下の休憩所で(保存会の方かな?)お茶とお菓子の無料接待をしてくださっていました。
| 名前 |
形原神社 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
0533-57-2871 |
| HP | |
| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
|
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形原神社(かたのはらじんじゃ)。愛知県蒲郡市形原町八ケ峯。式内社(小)、旧県社。江戸時代は「春日大明神」と称していた。主祭神:埴安大神(はにやすのおおかみ) 朝廷別王命 誉田別命 豊受姫大神 天兒屋根神埴安神は、田畠の土の神であり、陶磁器の祖神。【関係氏族】形原氏資料によると、往古天児屋根命苗裔形原千方公が欽明天皇11年(639)、東夷鎮定の大将となり当地に下向して創立という。藤原千方が当地に駐屯し、荒地を開拓して、山麓に大和国から勧請した埴安神を祀ったのが創祀。現在は山の中腹だが、元は山麓の東南の平地に鎮座していたという。藤原千方は都へ帰った後にも祭祀料二石を奉献。皇極天皇から「形原神社」の社号を賜り、村落を「雲見宮内の庄」と称したという。『日本総国風土記』によれば、「皇極天皇壬寅(642)十二月、圭田を奉り、神礼を加う」とある。『参河国神階帳』に従四位形原明神とあり、式内社・形原神社に比定されている古社だが、江戸時代には春日明神と称されており、荒廃していたらしいが、天保の頃には復興されたという。明治五年十月郷社に列し、大正十二年八月十七日県社に昇格した。昭和二十年一月、三河地震により社殿が被災したが、その後、復興された。とあります。