姫路城の侘び寂び再現空間。
上山里曲輪下段石垣跡の特徴
官兵衛が築いた石垣の歴史的価値を体感できる場所です。
侘び寂びを具現化した空間で、静かなひとときを楽しめます。
自然庭園の再現広場としても知られ、遺構が見事に残っています。
官兵衛普請の石垣石垣が作られた時代別に見る事が出来ます看板がありますが少し目立たない感じですが、看板から50メートル位登るだけですが、見る価値あります!
オッサン&オバはんの二人旅。黒田官兵衛さん普請の石垣。38みねちゃん。
秀吉関係のお城には、必ずある曲輪名で、禅宗や茶の湯で言うところの、市井の山居……町中にあって、山野の佇まいを指す侘び寂びを具現化した空間を作ろうとした一角と言われてます簡単に言えば、自然庭園の再現広場でしょうか。
遺構が良く残っています。
名前 |
上山里曲輪下段石垣跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
079-285-1146 |
住所 |
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HP | |
評価 |
4.3 |
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姫路城 上山里曲輪下段石垣跡〒670-0012 兵庫県姫路市本町68 姫路城姫路城を守る会と姫路市による比較的新しい案内板があります。かなり文書量が多く、炎天下で読むのは大変なので、次にこちらを訪問される方のために文字起こししておきます。●下山里この地は、二の丸上山里の下に位置し、西、南側は石垣組みに土塀をめぐらして東方に門を開いていた。昭和八年、東北側の崖沿い通路が整備され、昭和三十年までは下山里展望台として市民に親しまれた。現在では、この下山里に五輪塔などの仏石が祀られている。これは姫路城の修築工事の際に石垣の中から出てきたものを集めて、五輪の形に積み上げて供養したものである。姫山には康治二年(一一四三年)に称明寺が建立され、この地方を治めた豪族や役人の墓が多くあったといわれている。その後、城を築くときに寺を麗に移し、その時の墓石など多くの仏石を石垣に組み込んだといわれている。称明寺は正明寺と改名されて五軒邸に現存する。また、五輪塔の前にある石燈籠は、東京都谷中の姫路城主酒井家墓地から平成二年に移したものである。この燈籠は、最後の城主として僅か一年余の在任ではあったが、名君の誉れ高かった酒井忠邦公を惜しみ、旧姫路藩士等三二二人が浄財を寄せて、明治十三年三月、忠邦公の一周忌に公の墓前に建立したものである。当会では毎年春、秋の彼岸と旧盆に正明寺住職を招いて、この仏石ゆかりの人をはじめ、築城にかかわった人や藩主、藩士の供養を営んでいる。平成三年三月 姫路城を守る会●上山里下段石垣正面の石垣は、上山里下段石垣で、現存する姫路城の石垣のなかでその特徴(積み方、石材の加工)からみて十六世紀後半の天正期に築かれた石垣、すなわち天正八年(一五八〇)~九年に羽柴秀吉によって築かれたと考えられます。羽柴秀吉は、中国(毛利)攻めのため小寺(黒田)官兵衛の姫路城を拠点とし、当時としてはめずらしい三重の天守を持つ新しい城郭を築きました。その後、姫路城は池田氏や本多氏による大改修を経て、大きく進化しました。現在の天守は、池田輝政が秀吉の三重天守を撤去して新たに建てたものですが、天守のある姫山には秀吉によって築かれたとみられ石垣が数多く残っており、上山里下段石垣もその一つです。当時、秀吉が官兵衛に宛てた書状(※黒田家文書)によると、秀吉は最も頼りとする重臣で地域の事情に精通している官兵衛にも築城を命じており、この石垣も官兵衛が関わった可能性があり、現在の姫路城にも官兵衛時代の名残りが存在しています。平成二十五年 姫路市教育委員会。