尚泰久王の墓、歴史の秘密探索。
尚泰久王・安次富加那巴志の墓の特徴
階段を登ると待つ、ひっそりとした巨石の下の静けさ。
訪問時、興味深い内容の案内板が心を引きつけた。
尚泰久王の墓がある場所、富里の歴史の不思議を感じる。
2024年2月16日、午後訪問南城市の玉城にあるお墓道路から階段を登ると巨石の下にひっそりとお墓がありやす案内板に書かれてる記事はとても興味深い内容やったさあ。
第一尚氏 第6代目王。
なぜここ富里に尚泰久王の墓があるのか不思議でした。第一尚氏王統7代続いたうちの6代目、尚泰久の墓です。在位1454年〜1460年、父は第一尚氏王統2代の尚巴志王の七男です。在位中に護佐丸、阿摩和利の乱が起きており、ここ當里には阿摩和利の妻百十踏揚(ももとふみあがり)の墓もあります。
名前 |
尚泰久王・安次富加那巴志の墓 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
098-946-8990 |
住所 |
|
HP |
https://gusukumitisirube.jp/arubamu/nakaemagusukuarubamu/02.html |
評価 |
4.1 |
周辺のオススメ

尚泰久王(1415~1460。第一尚氏王統 6代の王。在位 7年)は尚巴志王の七男で、即位する前は越来王子と称しました。その治世中に阿摩和利と護佐丸の乱(1458年)が起きたほか、多くの造寺、造鐘(万国津梁の鐘など)がなされ、また琉球最初の貨幣の「大世通宝」も鋳造されています。尚泰久の最初の墓は、首里の天山陵に葬られていましたが、第二尚氏の成立により、ここから読谷山間切伊良皆に移されたといいます。尚泰久王の骨だけは、ここから美里間切伊波村にかくして、誰にも知られないように安置されていました。明治 41(1910)年頃、字當山の屋良腹門中の子孫が骨の入った大きな石棺を伊波村から二日がかりで運び、現在の神座原(ウフギシモー)にあった尚泰久王の長男である安次富加那巴志の墓の隣に移葬しました。-案内板より-