新田義貞の白旗塚、歴史を感じて。
白旗塚の特徴
白旗塚は新田義貞が源氏の白旗を掲げた場所です。
鎌倉時代の激戦が繰り広げられた小手指原古戦場の近くに位置しています。
盛り土された塚は、古代の古墳とも評され、歴史を感じさせるスポットです。
以前は塚の上に祠があったのですが無くなっていました。場所を移したのでしょうか。古戦場の石碑もすぐ近くにあるのでセットで行きましょう。
小手指原古戦場の碑近くの畑の中にこんもりとした小山があり、そこが白旗塚になります。鎌倉時代末期、今から約650年前に鎌倉幕府に対して兵を挙げた新田義貞がここに陣をはり源氏の旗印である白い旗をかかげたという伝承が残っている場所です。
小手指ヶ原で鎌倉幕府と戦った新田義貞が源氏の白旗を掲げた場所らしいです。私はこの場所の雰囲気がトトロに出てくる塚森に似ているという情報を得て行きました。塚の上には木が生えているだけで、何もありませんでした。黒猫が住み着いているようで、近所の方々が餌をやっているそうです。
鎌倉幕府に反旗を翻し、 中心都市の鎌倉を攻略し統治組織を壊滅 させて、 鎌倉幕府 滅亡のきっかけを作った 新田義貞 と鎌倉幕府軍が 初めて 遭遇して 戦った 小手指ヶ原古戦場で 、 新田義貞が源氏の子孫による挙兵であることを示す為、 この塚に源氏の白旗を掲げたことから 10 M 位の盛り土をしたこの塚を白旗塚と言います。 この塚は 昔の古墳だと話す人もいます。塚の周囲には畑と林 が 広がり、 南側は 東川まで 緩やかな 下り斜面となって います。鎌倉幕府軍は、東川対岸の丘の上の 北野天神社を幕府軍の拠点として、 白旗塚に対抗した と思われます。東川という 小川は、小手指ヶ原古戦場付近にある北野総合運動場の北側の緣を東に向かって流れ 所沢駅と所沢航空記念公園の間を通って 所沢インターチェンジ付近で 荒川の支流の 柳瀬川に合流 しています 。 合流点付近には 戦国時代に築城 され 秀吉の小田原攻めの時に 落城した滝の城の城址公園があります。北野総合運動場は 野球場3面とテニスコート12面や駐車場などの設備があり 広い平地になっています。 当時はこの平地でも両軍による戦いが行われたのかもしれません。 太平記によると合戦の時には 両軍合わせて800名の死者が出たそうで、血で東川が赤く染まったのかもしれません白旗塚の近くには所沢市の 埋蔵文化財調査センターがあります。 その調査センターに 当時の 街道の図があったので拡大して掲載してます 興味ある方は調査センターを訪れてください。
個人所有だそうです。自分が見た目には前方広円墳の形をしている。少し離れて駐車して徒歩で10分位。
近隣の人たちの散歩コースのようである。幾組みものウォーカーが行き交う。コースから外れてると分かりにくい場所にある。小手指ケ原古戦場の碑の近くにあり、新田義貞が本陣を置き源氏のシンボルの白旗を翻したという。小高い丘に朴(「朴の花諸枝に咲きて重ならず」の碑による)の大木が遠くからも見える。地元の人は椎の木と言っていた。ドングリがいっぱい落ちていた。
現在、塚は1km南方の北野天神社に移されたそうです。新田軍と北条軍の戦の時に存在したのか後に造られたものかは分かりませんが平地の中で一段高く木々に覆われた小山は本陣には適していると思われます。
元弘3年(1333年)の新田義貞の鎌倉攻めでは、小手指原が最初に鎌倉幕府軍と激戦を交えた処といわれていますが、そのとき、新田義貞が源氏の白旗を掲げたところとが、この白旗塚と伝わっています。
こんもりと盛り土されており、ちょっとした富士塚のようですが、古代の古墳とも言われてるようです。山の下にはこんな碑がありました古武将の御魂祭れりこの塚を護り通せと先祖より受此の塚を壊せし者は忽ちに霊魔を受けて死するやもあり武蔵野の小手指ヶ原古戦場月の光は変らざりけ里。
名前 |
白旗塚 |
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ジャンル |
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電話番号 |
04-2998-9192 |
住所 |
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HP | |
評価 |
3.6 |
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現在、白旗塚(石碑・祠等)は南東約900mにある北野天神社に移されている。表土流出や土台の露出などが著しく管理の都合又公園化事業に伴っての事と言う。なお、塚南側には、肥田埜勝美の句碑がある。氏は地元出身で、清瀬の国立療養所で出会った石田波郷の指導を受けた俳人である。