千年の歴史がきらり!
戸倉城跡の特徴
北側の登山口から僅か7分で山頂に到達可能です。
巨木を模した展望台からは360度のパノラマが楽しめます。
城跡は山城として重要視され、標高75メートルに位置します。
北側の登山口から徒歩僅か6〜7分で山頂に着きますが、山頂には巨木に擬えた展望台があり、そこに登ると一部木々に覆われつつも360度のパノラマを案内板付きでみることができます。夏の夕暮れ時に来るとひぐらし、ツクツクボウシ、ミンミンゼミが好き好きに鳴く中で心地よい風を浴びながら景色を一望できる良い場所です。
遺構は分かりにくい城跡ながら狩野川を天然の水堀とした後北条氏にとって重要な山城。御城印は柿田川湧水池にある清水町観光案内所「わくら」で購入することができる。
標高75メートルと低い山の頂に作られた城ですが斜面は急峻で、麓には狩野川が蛇行し三方を囲む要害性の高い城であったことがわかります。城跡は公園となっており展望台が設置されおり、堀切もしっかり残っています。
【甲州征伐時に乗じて北条軍が落とす?】北条氏政は小仏峠や御坂峠など相甲国境に先鋒を派遣した後、2月下旬に駿河東部に攻め入る。2月28日には駿河に残された武田側の数少ない拠点の1つである戸倉城・三枚橋城を落とし、続いて3月に入ると沼津や吉原にあった武田側の諸城を陥落させていった。上野方面では氏政の弟・北条氏邦が厩橋城主北条高広に圧力をかけ、さらに真田昌幸の領地をも脅かしていった。
戸倉城は、文明年間(1469~1487年)今川氏によって築かれたとする史料が有りますが定かではなく、天文年間(1532~1544年)以降に築かれたとする説と、北条氏綱によって築かれたとする説があり、伊豆国と駿河国との境目の城として重要視され、三国同盟(駿・甲・相同盟)が破れた永禄11年(1568年)から元亀2年(1571年)に掛け武田氏と北条氏の争奪戦の舞台となりましたが、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐による小田原城の落城によって廃城となりました。現在は、山頂部が本城山公園として整備され展望台が有ります。
標高74.3㍍カブスカウト小学3年生~5年生年代自然観察ビンゴカードを作り頂上攻め落とす。山頂展望からも360度地形が見渡せる。柿田川と狩野川の合流点、柿田川の清流の差がハッキリ確認できる。
素晴らしい景色でした❗
見晴らしが良く、富士山も綺麗に見えます。
他の人もクチコミしているようにお城の遺構を見つけるのは確かに難しい。 お城としての場所はとても良いような場所です❗
名前 |
戸倉城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.5 |
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2018/12/22この城はたびたび歴史にその名を刻んでいるが、何と言っても天正9年武田氏の滅亡直前に北条氏から武田氏に寝返った重臣笠原氏を思い浮かべる。それだけ重要であったこの城だが、現地に行ってみると以外にも曲輪の面積は少なく、それほど多くの兵を置けなさそう。おそらく山上ではなく、普段は平地に兵を配置していたのであろう。