浜名湖の弁天島で、心安らぐ参拝を。
辨天神社の特徴
浜名湖の弁天島にある、海に見える鳥居の神社です。
こじんまりとした境内は、龍の鱗のような松が魅力的です。
弁天島駅からすぐ近く、アクセスが非常に便利な場所です。
主祭神は市杵島毘賣命(いちきしまひめのみこと)です。この神社は航海安全や縁結び、子宝などのご利益があるとされています。1708年に航路の安全を祈願して建立され、弁天島という地名もこの神社に由来しています。また、天女伝説や白蛇伝説など、興味深い伝説も多く残っています。天女伝説昔、弁天島の辺りは白砂青松が広がる美しい場所で、天女が舞い降りたとされています。村人たちは天女を歓迎し、ここに留まってほしいと願いましたが、天女は駿河の三保の松原へと去ってしまいました。その後、弁天島は大きな災害に見舞われ、島として残ることになりました。白蛇伝説辨天神社の境内には白蛇が住んでいるとされ、白蛇を見ると幸運が訪れると言われています。この白蛇は神の使いとされ、神聖な存在として崇められています。子宝の松伝説境内には「子宝の松」と呼ばれる松の木があり、この木に祈ると子宝に恵まれるとされています。多くの夫婦がこの松を訪れ、子供を授かることを願っています。
ひっそりとたたずむ弁天様です。御朱印が欲しくて、300円賽銭箱に入れましたが、先にいらした方が最後の一枚を持っていかれ、御朱印はいただけませんでしたが、帰りの交通安全を祈願したと思うことにしました。
弁天島橋からすぐにあります。赤い神額が珍しく拝殿や本殿、手水も真っ赤。その昔に天女が舞い降りたそうで住民が居着いてほしいと懇願したが三保の松原へ天女は行ってしまったそう。以来、天女伝説がある神社です。橋がかかるまでは今切の渡しを利用して渡海する人たちの安全を見守る神社でしたが現在は弁天島で釣りをする人たちの安全を見守ってるのでしょうか。
平日の昼間の車通りの比較的少ない時間帯にゆっくり通ったら車1台分の駐車場が本殿の真横の辺りにあったので参拝する事が出来ました。書置きの御朱印があり有難く授かりました。お代は賽銭箱に納めました。ちゃんと当月のものでしたが、まだ一桁の日にちなのに御朱印の縁が黄ばんでいたので「え〜⤵」と思いました。
浜松市西区舞阪町弁天島に鎮座する辨天神社。ご祭神は市杵島姫命様です。西側に参拝者用の駐車場が一台分あります。平日の昼間に参拝。ら弁天島のシンボルの赤い鳥居⛩が見える海浜公園も徒歩2分くらいでしょうか。無人ですが、拝殿の左で書置きの御朱印やお守りをいただけます。(お代は賽銭箱とのこと。)手水舎もきれいで境内も整えられていて大切にされている神社でした。
小さいけど雰囲気の良い神社。
小さな神社です。町中にありますが、雰囲気はいい。海の方へ行けば大きな鳥居もあります。
境内は、小さいですが海に見える鳥居は晴れた日に見ると良いです。御朱印は、賽銭箱横にあります。
御朱印の封筒が丁寧に包んであり、封筒が御朱印かと思うほどすばらしい。もちろん御朱印も素晴らしいですね。
名前 |
辨天神社 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
090-3447-9630 |
住所 |
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HP | |
評価 |
3.9 |
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弁天島の名の由来ともなった神社です。ご祭神は市杵島姫命。海上安全・交通安全・家内安全・商売繁盛など、諸願成就のご利益があるそうです。鳥居の手前右手に天女伝説や弁天島の成り立ちなどの神社の簡単な説明板。鳥居には赤い社号額が掲げられており、全国的に見ても珍しいと思います。鳥居の左手後方には明治時代に建立された「海上安全」碑。左右側面および背面にも刻字が見られますが、摩滅が激しく一部の刻字しか判読できません。参道を僅かに進むと川も無いのに形式的に小さな弁天橋がしつらえられているのは、江戸時代までは神道の市杵島姫命と仏教の弁財天とが習合していた証左です。橋の袂にお手水舎。その正面奥に正岡子規氏の句碑と松島十湖氏の句碑。参道は右折して正面に上り階段とその奥にご社殿。階段の右手奥に茅原華山氏の漢詩碑。それら以外に境内のそこかしこに松の巨木があります。特にご拝殿手前の注連縄が懸けられている松は「子宝の松」と呼ばれているそうで、これに祈願すると子宝に恵まれると言われています。しかし、境内のどこにも子宝の松に関する案内が見当たりませんでした。神職不在社ですが、ご拝殿の扉の中にお守りやご朱印が置かれていますので、お賽銭箱に初穂料を納めて授かる方式です。室町時代中期以前、浜名湖の南岸は遠州灘からは4km程も離れた位置にあり、淡水湖であった浜名湖から遠州灘へは浜名川が唯一の湖水流出河川でした。つまり当時の浜名川は、現在とは逆に西に流れてその儘遠州灘に河口が開いていたんですね。その当時、浜名川には唯一の橋である浜名橋が架かっており、その袂の町は橋本(現在の湖西市新居町浜名の東部。後に江戸時代には東海道新居宿の加宿ともなりました)と呼ばれ栄えました。当時は現在の弁天島の辺りから橋本の辺りまで地続きで、白砂青松の美しい風景が広がっていたそうです。その美しさに誘われてか天女が舞い降りたため、村人たちは大いに喜び、ご社殿を建立してお祀りするので当地に留まってほしいと天女に懇願しましたが、何が気に入らなかったのか天女は駿河の三保の松原(現在の静岡市清水区三保)へ去ってしまったという説話が残っています。羽衣の松の説話に登場する天女は、最初に弁天島に来訪していたんですね。しかし、この天女伝説は当辨天神社とは直接的な関係はありません。明応7年(1498年)8月25日に発生した「明応の大地震(明応東海地震)」で浜名湖南岸地域一帯が1m以上地盤沈下を起こし、浜名湖と遠州灘とが一部繋がってしまいました。更に翌明応8年(1499年)6月に発生した暴風雨で遠州灘からの高潮が湖内に流入し、前年に地盤沈下していた土地が水没してしまいました。また浜名川の河口域は、天伯原台地〈てんぱくばらだいち〉や高師原台地〈たかしばらだいち〉(共に現在の愛知県豊橋市)が暴風雨によって土砂崩れを起こして堰塞されてしまいました。これによって流出路が失われた浜名湖の水は、上流域から流入してくる大量の水を伴って、前年に繋がっていた浜名湖南岸の切れ目から遠州灘へと強い流れとなって地盤の弱い部分を破り出て行きました。これが現在の今切〈いまぎれ〉です。ただし今切の現出は史料によっては異説があり、『東栄鑑』では明応7年(1498年)、『遠江国風土記伝』では応永12年(1405年)・文明7年(1475年)・明応8年(1499年)の3説、『重編応仁記』では永生7年(1510年)となっています。いずれにせよ、かつては洲崎(現在の湖西市新居町)の一部であったこの地は浜名湖の中に取り残されて島となり、「西野」または「孤島〈きつねじま〉」と呼ばれるようになったそうです。この後は舞坂宿と新居宿との間を今切の渡し船で往来するようになりましたが、その際、安全な航路として西野孤島の北側を航行していたそうです。宝永4年(1707年)10月4日に発生した「宝永の大地震(宝永地震)」で今切渡船も大被害を受け、その復旧工事を江戸の松葉屋喜兵衛が請け負いました。工事が完了した宝永6年(1709年)、今切渡船の安全を祈願して、松葉屋喜兵衛によって武蔵国川越(現在の埼玉県川越市)の城下仙波村の弁財天がこの島に勧請され、辨天神社が建てられました。これが当辨天神社のご由緒です。当神社が鎮座したことで、島はそれまでの「西野」や「孤島〈きつねじま〉」から改められて「弁天島」と呼ばれるようになりました。前述の天女伝説も相俟って、当神社は地域の人々によって大切に守られてきたそうです。しかし、その後も潮風や台風などによってご社殿はしばしば被害を受け、その度に幾度も修理が繰り返されたそうですが、嘉永7年(安政元年、1854年)11月4日に発生した「安政の大地震(安政東海地震)」では、9mにも及んだ津波によってご社殿が跡形もなく流されてしまいます。この地震では舞坂宿も流失家屋8軒、全壊家屋58軒、破損家屋214軒を数える大被害を受けており、神社の復興資金を出す十分な余裕などありませんでしたが、漁師たちは外洋に出る際、辨天神社に航海の安全を祈願していたため、おのおの精一杯の浄財を出し合って仮のご社殿が造営されたとのことです。