結城秀康公の凛々しい像を見に。
結城秀康騎馬像の特徴
中国で作成された結城秀康公の騎馬像が見どころです。
徳川家康の次男、結城秀康の歴史を感じられます。
桜を背負った騎馬上の姿は非常に立派です。
徳川家康公の次男 結城秀康公(松平秀康)の像です。名将として名高い秀康公が?? という感じです。日本の彫刻家に造って頂いたらもっと良い秀康公が出来ると思いました。
結城秀康公は、天正2(1574)年、徳川家康の次男として生まれました。母は家康の側室、お万の方(長勝院)、幼名は於義丸と名付けられました。本能寺の変で織田信長公が亡き後、天正12(1584)年に、織田信雄公(信長の次男)徳川家康公の連合軍と羽柴秀吉公の間で行われた「小牧・長久手の戦い」の講和により、於義丸は秀吉の養子(一説に人質)として差し出され、羽柴秀康公と改名します。その後、天正18(1590)年、関白秀吉公が北条氏を攻めた小田原征伐に参陣した結城晴朝公は、秀吉の近親者を養子として迎え入れたいと願い出て、これを了承した秀吉は、秀康公を結城家への養子として送り出します。こうして、結城秀康公が誕生し、17歳にして結城家18代当主となりました。秀康公の結城時代での業績で、特筆すべきものが2つあります。1つは、文禄4(1595)年に結城領の検地を行い(文禄検地)、石高が10万1千石と確定したことです。もう1つは、城の西側に新たに城下町を築いたことであり、慶長3(1598)年に完成したこの町割りは、現在も北部市街地の街並みとして残されています。慶長5(1600)年、関ヶ原の合戦が起こると、秀康公は宇都宮に陣を張り、会津の上杉景勝公の動きを封じた功績により、越前・北ノ庄(福井)に68万石に加増されて転封となります。秀康公は、越前入国に際し、家臣団と共に、結城家と関わりの深い孝顕寺などの寺院や有力な町人なども移転や移住をさせており、その華やかな引っ越しの様子は「結城引っ越し」と称され、後世に語りつがれています。越前に移った秀康公は、結城から松平に改姓し、越前松平氏の祖となりました。武勇に優れ、本来ならば2代将軍にもなれた武将は、慶長12(1607)年、福井城の落成を見届けること無く、病気により34歳の若さでこの世を去りました。
徳川家康の次男で越前福井藩の初代藩主となった武将です。石像はまだ新しく、騎馬にまたがり無表情で前方を見つめていました。
徳川家康次男にして初代福井藩主結城秀康の像。家康に嫌われていたとはいえその格から当時67万石の大藩であったが、3代目が徳川宗家と対立し改易となった。
目立つ場所に設置するのであれば、もう少しまともな像を設置すべきでした。デザインも骨格もバランスも破綻しているので初代藩主である秀康公にも失礼。まあ、ビッグネームが制作したとしても大半の人はスルーするでしょうけど。
なんだか日本人とは違うような出で立ちに違和感がありました。どうやら海外で作られたもののようですね。妙に納得。どうせなら日本で作ったら、こんな感じにならなくて済んだんじゃないかと思いますよ。
中国で作成された結城秀康公の騎馬像ですが、なんか日本の武将ではなく清とか中国の武将みたいな感じです。
桜を背負った騎馬上の結城秀康公は立派の一言です。福井城はお城はありませんが石垣やお堀は素晴らしく立派で、桜の時期は目を見張るものがあります。
個人的に、勇ましさなどは感じられませんでした、、、少しガッカリな姿です。中国で製作されたものらしいです。
名前 |
結城秀康騎馬像 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP |
http://www.city.fukui.lg.jp/kankou/bunka/rekisi/zo-hideyasu.html |
評価 |
3.4 |
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コメント見るに日本で作られたモノで無いらしいですが、輸送コスト加味しても安いんでしょうね。考えさせられますね、違った意味で……