新徳寺で感じる幕末の熱!
新徳寺の特徴
新徳寺は新選組の歴史と縁の深い場所です。
清河八郎が浪士たちに演説を行った伝説の寺院です。
特別公開で普段見れない内観を楽しむことができます。
23年8月23日、「京の夏の夏」特別公開に訪れました。通常非公開のお寺です。写真撮影は本堂の中も出来ました。幕末、将軍を護衛する任務のため上洛した「浪士組」のリーダー・清河八郎が約200人の浪士たちを集めて、『新徳寺』の本堂で尊王攘夷の演説を行ないました。本堂は当時のものだそうです。多くの浪士と、清河八郎は江戸に引き返しましたが、これに反発し京都にとどまった芹沢鴨、近藤勇、土方歳三などは、のちの「新選組」を立ち上げました。本堂の内陣にはご本尊・准胝観音菩薩像、「屋根葺き地蔵」と呼ばれる地蔵菩薩像が安置されています。また、本堂内陣向かって左横の部屋は、清河八郎が泊まった部屋だそうです。絵心のあるご住職さんだそうで、ご住職さんが描かれた新選組の肖像画なども展示してありました。本堂の屋根は珍しい形をしているそうで、2匹の猿がいました。一匹は桃を持っています。
非公開だった新徳寺の中を見ることが叶い大変満足してますここに当時の浪士たちが集まってたと思うと不思議な感覚でした後に新選組となる芹沢、近藤、土方などが座ってた場所に自分も座ってる彼らも見てたんだろう永倉新八の書いた書物を読むと芹沢鴨は何をしでかすかわからない恐ろしさで、隊長と呼ばれて容赦なく何人も人を斬るそれもいきなり斬るので隊士はみな怖がっていた大河ドラマの芹沢どころじゃない短気さ後に鬼の副長と呼ばれる土方も芹沢には恐れを抱いていた結局、酔わせて寝てるところを4人で襲わないと太刀打ちできない恐怖があったんだろう話は脱線してしまったが、新徳寺は普段見れないので価値がありました行ってよかったです。
令和5年8月に「京の夏の旅」で特別公開されていたので訪れました駐車場はなし撮影は御本尊以外は全てOKでした御朱印は書置きで頂けました新選組の前身である浪士組のリーダーである清河八郎の宿舎だったそうです本堂の横の部屋が泊まられたとこだそうです本堂の屋根にはお猿さんが載っていますそのことも解説されていました。
昔も今も山門には柵で閉ざされて拝観出来ませんでしたが、この度特別公開されましたので拝観させて頂きました。この寺院は1863年に新選組を起因させた寺院として著名ですが、創建は1739年(江戸中期)に御所の旧殿を本殿として移築するも、1788年の天明の大火により焼失その後再建されたのが今の本堂です。本尊は准胝観音菩薩ですが、右隣の地蔵菩薩は大風でバラバラになった老婆の家の屋根を老婆の留守中に若い法師に化身して直したので「屋根葺地蔵尊」として親しまれ信仰された地蔵さんです。それにしてもここの庭は狭いながらもきれいに整備されてました。
京都三社寺めぐりで知り巡ってみました!新撰組ゆかりの場所だそうです。※内部は、非公開のため御集印の際に写真を見せてくださいます。元文4年(1739年)に創建されました。新春特別御集印→500円両方書き置きのみです。
新選組ゆかりの寺。上洛した浪士たちを前にして清河八郎が大演説をぶったとか。拝観はできないような。清河八郎って「策士」のイメージがあり、勤皇の志士ながら毀誉褒貶ある人。あまり人気があるとは言えないが、時代小説作家の藤沢周平が清河八郎を主人公にした小説「回天の門」は同郷の清河八郎を哀切を持って描いていて新選組前史としてもおすすめ。
どこから入って良いのか迷いました(--;)丁寧な対応でしたが、通常サイズの書き置き御朱印、1
住職が先代にそっくりになってきた。
「大政奉還150年幕末維新を歩こう」新徳寺は新撰組にまつわる最初の大舞台となった場所です。上洛した新撰組の前身浪士組のリーダー清河八郎が浪士達を集めて、大演説をしたのが新徳寺の本堂です。清河 八郎(きよかわ はちろう、文政13年10月10日(1830年11月24日) - 文久3年4月13日(1863年5月30日))は、江戸時代末期(幕末)の庄内藩出身の志士。田中河内介とともに九州遊説をして尊王攘夷派の志士を京都に呼び寄せ、一方で浪士組を結成し新選組・新徴組への流れを作り、虎尾の会を率いて明治維新の火付け役となった。
名前 |
新徳寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
075-811-6569 |
住所 |
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HP | |
評価 |
3.9 |
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令和五年 京都夏の特別拝観で今まで見る事ができなかった新徳寺の内覧が出来ました。尊皇攘夷 の志士が集まる京都を警護する名目で集まった中の一人清河八郎がこの寺で演説したのがよく知られています。また、中に安置されている(屋根葺地蔵尊)も皆から信仰されている優しいお顔の地蔵様です😊