高瀬川艀跡で歴史を感じて。
高瀬川船廻し場跡の特徴
高瀬舟が往来した赤線地帯の名残がある場所です。
豊臣秀吉の命による高瀬川の開削が歴史的な背景です。
鴨川とは異なる静かな高瀬川の魅力を感じることができます。
かつては京都市中から伏見にかけて、大坂方面からの物資輸送のために平底の小型船、高瀬舟が往来していました。華やかな街の喧騒から少しはなれた五条の南側では、高瀬川のまた違う魅力や一面を感じることが出来ます。
■高瀬川船廻し場跡京都市街を流れる高瀬川で嘗て用いた運搬船「高瀬舟」の船廻し場跡。石碑と標札がある。
案内板には、豊臣秀吉のお達しで「角倉了以」の親子が1614年に完成させたとか。この辺りが運河の幅が広く岸が砂州で舟の取り回しをしたり、廻船問屋みたいな船を繋いだお店があったりしたとか。高瀬川は伏見の「巨椋池」からの運河です。最近大阪万博に合わせて大阪中之島から伏見への舟などの運行計画が出ているらしいとニュースになっています。さて出来るのか?「阪神電鉄」の舟ならイイな(笑)。
人街交流館の裏の道に有りました!表通りから一本中に入ると、雰囲気ががらっと変わります。歴史ある場所のようでした。
船廻し場跡といわれてもピンと来ないですね。現在は、案内板があるのみです。なかなか想像出来ません。
いくいくーーーーーあーーーーーーーあっあぁぁーーーーーーーー。
高瀬川は元々は伏見の巨椋池から水運を利用して方広寺大仏の物資などを運搬させるために豊臣秀吉が門倉了以に開削を開始させたもの。明治時代に入り東海道が開通すると物資運搬量も減り大正9年に廃止された。このあたりは元々遊郭で、戦後は赤線として、つい最近(平成22年)までは五条楽園として茶屋置屋が営業していたが警察の摘発で廃業に追い込まれた。現在は外人向けのゲストハウスなども増えてきたが、裏通りを探してみるとそれらしいポップな建物が残っているので探してみるのも面白い。
住宅街に溶け込んでいますが、よくよく見ると遊郭、赤線時代の名残が色濃く残っています。
京都市下京区梅湊町の船廻場跡五条新地・五条楽園と呼ばれ江戸時代から2010年まで存続した花街・遊郭の街を流れる高瀬川沿いに記念碑が建つ二条から伏見まで掘られた人口の水路(運河)高瀬川は1610年の方広寺大仏殿の再建をきっかけに豪商・角倉了以・素庵親子が自費を投じ1614年に開通させた高瀬舟という物資輸送用の舟は帆走の他は舟曳人夫や馬が川岸の曳舟道を曳いた。二条から四条の間に9か所の舟入(積降場)、四条以南に船廻し場(方向転換場)が置かれていた二条から七条を経由し伏見に流れた高瀬川は江戸時代を通じ伏見港を経て大坂へ繋がる物流手段として重要な役割を果たした1894年(明治27年)の琵琶湖疏水(鴨川運河)開通により輸送量は減少し1920年(大正9年)高瀬川の水運は廃止された。
名前 |
高瀬川船廻し場跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP |
https://kikuhamarengoukai.wixsite.com/kikuhamarengoukai/home-2 |
評価 |
4.1 |
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鴨川もいいが、高瀬川もいい。