菊池武時公の霊が宿る境内。
菊池霊社(菊池武時公 首塚)の特徴
菊池武時公の首塚がある歴史ある神社です。
博多合戦で討ち死にした武士を祀る場所です。
平野国臣が建立に関わった意義深い霊社です。
護国神社様に参拝前に鳥居が見えてたので立ち寄ってみたら…なんと鎌倉時代の名将,菊池武時公の首塚とのことでびっくりしました🙇謹んで参拝させて頂きましたが,境内は小規模ながら厳かな雰囲気で後で調べてみたら武時公は味方の離反で討死をされて首がここに,そして胴が七隈の菊池神社様に落ちたとの伝説がありその事実を知ると厳かな場所になるのも自然の摂理なのかなと思いました😊古地図でも「菊池武時墓」と書かれてるこの場所,そして人の心の儚さ…ここに来て深く考えさせられることがとても多かったです🙇
肥後菊池氏第12代当主、菊池武時公の首塚とされている。福岡市七隈にある菊池神社は、その武時公の胴体が埋められたと伝わる。鎌倉末期の1333年3月13日、南朝方だった菊池氏は櫛田神社の隣にあった鎮西探題を襲撃し、探題配下と合戦になるが敗れ、一族郎党200名余りが討死した・・・。少弐氏、大友氏の支持を得られなかったことも敗因の理由とも言えるが、この2ヶ月後の5月22日に鎌倉幕府が滅亡すると、少弐、大友は倒幕側に転じ、鎮西探題を滅ぼすことになる。
菊池氏十二代当主 菊池武時(1292年~1333年)の首塚と言われている。菊池武時は、十代 武房の孫で、十一代 時隆の弟にあたる。1333年、鎌倉幕府打倒を掲げた後醍醐天皇に応え、九州における幕府の出先機関である鎮西探題を襲撃した。幕府に反感を抱いていた少弐氏・大友氏と事前に共謀して討ち入りに臨んだが、直前に裏切られ、援軍が望めない中、菊池勢・阿蘇勢わずか70名あまりで作戦を決行したが、多勢に無勢の状況下、武時は自軍の敗退を覚悟、息子の武重(後に十三代当主)、武光(後に十五代当主)に撤退を命じた。この場面は「袖ヶ浦の別れ」として語り継がれている。その後、探題館にて壮絶な戦いを繰り広げるが、寝返った少弐軍・大友軍に背後を突かれ、突入した武時以下、全員が討死した。この忠節ぶりは、後に大楠公(楠木正成)によって、南朝への忠誠の第一人者と高く評価され、後醍醐天皇への進言を得て、十三代 武重が肥後守に任命されるという形で報われた。首が切られたのに気づかないまま数キロ走り抜けたという伝説が残っており、首が落ちたとされる福岡市中央区の六本松のこの場所に首塚、首を失った胴が倒れたとされる福岡市城南区の七隈に胴塚として、二つの墓が残っている。現在は首塚があるこの場所で菊池霊社の主祭神、胴塚がある場所で菊池神社の主祭神として祀られている。
菊池霊社は尊王攘夷派として有名な平野国臣が中心となって建立したものだと言われています。七隈の菊池神社は菊池武時の胴体を祀った胴塚、この菊池霊社は首を祀った首塚だとされています。
博多合戦で討ち死にした、第12代菊池武時公の首塚とされています。首塚説は、姪浜にある鎮西探題襲撃に失敗し退却途中、武時公は落命したため、胴体は七隈(菊池神社)に埋め、家臣は首を持って退却を続けたが、逃れられないと悟り、ここに首を埋めたというものです。しかし、この説は鎮西探題姪浜説に準拠しているので、探題館が博多であったことが明らかになった以上、もしお話が正しいのならこちらはむしろ胴塚ということになります。しかし『博多日記』では、武時公は退却時ではなく、襲撃時に討ち死にしたと記録されています。そもそも、ここにはもともと老杉があり、それが何かの墓印だとしか言われてなかったらしいのですが、火災で杉が焼けたのをきっかけに占いを行ったところ、武時公の祟りとでたので、武時の墓だと考えるようになったにすぎないようです。公園としての価値は低いですが、歴史の記憶としての価値は高いと思います。
遊び場に付いている、本当に非常に小さい神社(原文)놀이터에 붙어있는 정말 아주 작은 신사
놀이터에 붙어있는 정말 아주 작은 신사
| 名前 |
菊池霊社(菊池武時公 首塚) |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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菊池武時公の首塚を祀られています。お花が飾られていて、お参りして供養している人がいらっしゃるようです。