甲府の風格、武田信虎公像。
武田信虎公之像の特徴
武田信虎公の像は、迫力があり訪れる価値がある。
甲府の歴史的背景を感じられる観光スポットです。
武田城下町の整備に関与した重要人物の銅像です。
武田信虎公の銅像になります。甲府駅を出てすぐの駅前広場に設置されていました。立派でよいですね。
武田信虎には暴君のイメージがありますが、有力土豪層が割拠して乱国となっていた甲斐を統一し、甲府の城下町を開創するなど画期的な政策を推し進め、戦国大名・武田氏の基盤を築いた人物(甲府市HPより)子息の信玄公との不仲により甲斐国を追放されたイメージの強い方ではありますが、信玄公のその後の活躍も信虎公が礎を築いた武田氏あってのもの。そこはもっと評価されるべき御仁ではないかと思います。甲府駅北口からほど近い場所にあり、拝見しやすい場所でしたので、南口の信玄公の銅像と共に信虎公の銅像拝見もオススメです。
甲府駅南に布陣される武田信玄公と相対して北は信虎公が布陣されていました!軍配を持った姿が凛々しいです。
武田信玄公の父上の銅像です。南口にある武田信玄公の銅像と比べる迫力が不足していますが。
肖像画を元にして作られているようです。見た感じは、ちょっとヨボヨボなおじいちゃん。何か宇宙人みたいな印象も・・・かつては、妊婦の腹を割いて赤子の様子を見ていたとか、かなりアレな逸話も有って、印象のよろしくない武将の一人でした。まあ、ドラマとか作る際には、主人公は信玄公になることが多いですから、結果、対立したお父さんは悪役になってしまうと言う事だったのでしょう。実際、権力集中や領地経営などの内政面で家臣団と対立したようですから、一方から見れば強引な政治手腕を発揮する暴君的とも言えるのでしょう。ただ、偉大な信玄公の行動の中でもなかなか正当化しにくい簒奪の汚名を少しでも軽減するためには、そういう情報を流布する必要もあったのでしょう。武田氏の勢力拡大時のゴタゴタや、信玄公による簒奪、しかも、その後には武田家そのものが消滅したせいもあり、必ずしも豊富な情報が残っているわけでもありません。貧しい領国を支えていく義務を負う彼には彼の言い分が有ったのだろうと思います。意外と長生きだったのは、責任から解放された気楽さもあるのかなあって気がします。
南口の信玄公像と比べると迫力はないですね(^^;;
信虎公像 聞いていたより迫力あった 怖いわ。
信玄の父の像が立っています。見るだけなので時間はほとんどかかりません。
信玄公の父の武田信虎公像。2019年のこうふ開府500年を記念して、設置されたそうです。反対口の信玄公の銅像のあとに見るとどうしても迫力にかける。ただ、信虎公を紹介するのには、とても役に立っている。
| 名前 |
武田信虎公之像 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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武田信虎は、甲斐国の守護職を務める武田家の第17代当主・武田信縄の嫡男として生まれました。初名は信直です。永正4(1507)年、信縄の死により、信虎は14歳で家督を継ぎ、甲斐国の統一を果たし戦国大名へと成長しました。永正16(1519)年12月20日、川田(甲府市川田町)から躑躅が崎の地に館を築いて移り住み、同時に館の周囲には家臣や商職人らの移住を図り、多くの寺社も配置し甲斐国の新たな府中である「甲府」を開きました。天文10(1541)年、娘婿であった今川義元訪ねた際、晴信(信玄)によって帰路を絶たれ、駿河国に留まり隠居、まもなく出家し無人斎道有と名乗りました。義元の死後上洛し、将軍家に奉公しました。天正2(1574)年息子信廉が在城した信濃国高遠城へ身を寄せ、81歳で死去しました。葬儀は、甲府市古府中町の大泉寺で行われました。後継者となった信玄・勝頼が戦国大名として飛躍できたのは、甲斐国を一つにまとめ、甲府を開いて勢力基盤を整備した信虎の功績に寄るところが大きいです。平成30(2018)年12月20日、JR甲府駅北口「よっちゃばれ広場」で20日、甲府商工会議所が設置した「武田信虎公之像」の除幕式が行われました。令和元(2019)年は甲府開府500年にあたることから、甲府商工会議所から甲府市に寄贈されたものです。銅像の高さは2.1m、重さは400kg、右手に軍配風の扇子を持ち、左手は拳を胸の前で握っています。当時の館の方向を背に、顔を富士山に向けています。