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名前 |
保食神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.5 |
奄美群島の要(カナメ)だった、喜界島琉球王朝の💉血を継ぐシマ現在の沖縄本島を中心に、13世紀頃から 1872(明治5)年の廃藩置県まで存在した王朝 - 琉球(ナハ/琉球王国)。 (韓国料理)中国大陸と日本の間に位置し、海と島々を制して高い文化と技術を誇った「国」であったことは、既に有名なところです。15世紀、沖縄諸島の統一に次いで奄美群島の統一も目指していた琉球王国。 与論島・沖永良部島・徳之島・奄美大島を順調に統一(併合)するも、最後まで手を焼かされたのが、喜界島。 なんと、10回以上に及ぶ侵攻作戦の末、15年ほどかかってようやく統一(併合)できたと言われています。 そう、当時の喜界島は奄美群島で最も(筋肉)『強い』島、琉球王国にとっても奄美にとっても ” 要(カナメ)” の島だった訳です。琉球王国に統一されてからは当然のこと、それ以前(13世紀頃)から琉球王国の(外国人)王朝(王家)縁の人間や役人が多く渡航していたといわれる、喜界島。 いくつかの集落は「琉球から渡ってきた人々が作った(住み着いた)シマ(集落)」とも伝えられています。 島内には、集落の墓地に ” 琉球式(型)” の古い墓石が残されている集落が、いくつか見受けられます。喜界島の北部に位置する佐手久(さてく)集落も、その1つ。 そして、この集落では珍しい(墓)お墓(墓地)が確認されています。 通常、『集落の(神様)氏神様(神社・祠)を山手の高い場所』に配置(※ ただし、海の神様は沿岸に配置)し、『集落の墓地は麓の沿道や沿岸部など低い位置』に配するのが慣わし(※ ただし、山手の集落や山手を有しない集落はこの限りではない)となっている、喜界島の集落形成。 沿岸部に広がる佐手久集落でも、標高 40m 程の丘陵「錦峰山」の上部に「保食神社」を配し、一般の墓地は丘陵の中腹から下に配されています。ところが、⛩️「保食神社」より高い位置にも墓地が配されている「錦峰山」。 深い🌳木々に覆われているため、普段お目にかかることはできませんが、古い墓地が現存しています。 そして、そのお墓こそが、嘗て琉球王国から派遣され、その後この集落に定住した🏯『家』(琉球王朝縁の家)のお墓。 氏神様より高い位置に墓地があることから、当時の琉球王朝(王家)がいかに高い『位』と権力を有していたかを、うかがい知ることができます。喜界島佐手久集落後方霊山「錦峰山」の海側斜面に配されている「佐手久保食神社」喜界島佐手久集落社(やしろ)の後方、山頂付近に琉球王朝縁の墓地があります。