間宮林蔵の生家訪問。
間宮林蔵の生家の特徴
昭和46年に移築・復元された歴史的建物である。
間宮林蔵が樺太を一周した経緯が学べる場だ。
小さな記念館ながら充実した展示が楽しめる。
小柄なご自宅。記念館もあわせて素敵なサイズ感!
本人や肉親のキャラクターの説明がないのは、後半生に幕府の密命を帯びた仕事が多く、記録も残っていないからなのか。偉業を成し遂げたのに地味すぎるのがある種の寂寥感と凄みを感じさせる。
江戸時代後期の将軍家御庭番で探検家の間宮林蔵の生家です。安永4年(1775)に百姓の子として生まれましたが、間宮家の祖先は元々武士の家系で戦国時代に後北条氏に仕えた宇多源氏佐々木氏分流間宮氏といわれます。林蔵が子供の頃、利根川東遷事業の一環で近くで堰の普請を行なっていました。この作業に加わった林蔵は幕臣・村上島之丞に地理や算術の才能を見込まれ、後に幕府の下役人となりました。寛政11年(1799)、国後島に派遣され、伊能忠敬と出会い、測量技術を学び、その後、享和3年(1803)までに日本海岸、オホーツク海岸を測量し、得撫島までの地図を作製しました。文化4年(1807)4月25日、択捉島に勤務していた際、幕府から通商の要求を断られたニコライ・レザノフが復讐のため、同島襲撃し、巻き込まれました。林蔵は徹底抗戦を主張しましたが受け入れられず、撤退。後に他の幕吏らが撤退の責任を追及され処罰される中、林蔵は抗戦を主張したことが認められて不問とされました。文化5年(1808)、松田伝十郎に従って樺太探索を開始しました。樺太が島であるという推測を得て翌年7月に宗谷に帰着し、調査の報告書を提出した後、すぐに更に奥地への探索を願い出て、単身樺太へ向かいました。林蔵は現地でアイヌの従者を雇い、樺太西岸を北上し、第一回の探索で到達した地よりも更に北に進んで黒竜江河口の対岸に位置する北樺太西岸ナニオーまで到達し、樺太が半島ではなく島である事を確認しました。更に林蔵は、樺太北部に居住するギリヤーク人から清国の役所が黒竜江下流の町デレンにあると聞き、ロシア帝国の動向を探るために、鎖国の掟を破ってギリヤーク人らと海峡を渡りました。ロシア帝国がまだ極東地域を必十分に支配しておらず、清国人が多くいると報告しました。間宮林蔵は樺太が島であることを確認した人物として認められ、シーボルトは後に作成した日本地図で樺太・大陸間の海峡最狭部を「マミアノセト」と命名しました。探索で培った、蝦夷・樺太方面に対する豊富な知識や海防に対する見識が高く評価され、老中大久保忠真に重用され、川路聖謨らとも親交を持ちました。天保15年2月26日(1844年4月13日)、江戸で死去しました。家督は浅草の蔵手代青柳家から養子に入った孝順が相続しましたが、アイヌ人女性との間に生まれた実子がおり、子孫が現在でも北海道に在住しているといわれています。伊能忠敬が間宮に測量の技術を教授し、間宮の測量の精度があがったという。日程の都合上、忠敬が蝦夷地を測量できなかったため、間宮が代わりに蝦夷地を測量して測量図を作りました。その結果、大日本沿海輿地全図の蝦夷以北の地図は最終的に間宮の測量図になりました。
社会科で「間宮海峡」習いました。シーボルトが書き記して世界地図に載るようになったんですね(マミヤノセト)。極寒の地でアイヌのあの毛布ではさぞ寒かったことと思いました。命がけの大冒険と大事業、後年地理に詳しく 多少アイヌや露の言語もわかり外交も多才からか隠密の仕事も。広大な探検の情熱と 計り知れない努力と忍耐、それを支える強靭なメンタルに感服しました。
宗谷岬最北端の碑の前に間宮林蔵の像もある。ビックリ!宗谷岬の手前にも間宮林蔵が出向の碑もある。稚内市樺太記念館にも間宮林蔵の生い立ちの説明がある。是非、師匠である千葉県香取市の伊能忠敬記念館に行き、稚内市まで足を運んで頂きたい。
利根川渡るとナビに間宮林蔵の生家とあった ハンドルを右に回す 田んぼ道を走り案内看板の指示に従う 駐車場もあり停めて歩いてゆく 月曜日はお休みの様だ 保存状態が良い生家だった また改めたい。
小さな小さな記念館。対応の感じも良くて楽しい時間を過ごす事が出来ました。
臨時休館日でした。江戸時代の大探検家、測量家でした。
元は現在地の南西約50mの位置にあったが、昭和46年に移築・復元された。
| 名前 |
間宮林蔵の生家 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
0297-58-7701 |
| 評価 |
4.4 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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お盆の連休に行きましたが、たまたまなのか、他にお客さんはいませんでした。約9分の映像で林蔵先生の偉業を見られます。資料もしっかり揃っていてオススメです。