関ヶ原の戦死者を守る東首塚。
東首塚の特徴
東首塚は関ヶ原の戦いで亡くなった者たちの供養の場所です。
JR関ヶ原駅から徒歩で約5分、アクセスも便利な史跡名勝です。
大木が時の流れを感じさせ、静かな雰囲気に包まれています。
首実検された将士の首を葬り祀った供養塚す。2023年5月上旬、関ヶ原探訪の際に寄りました。西首塚と異なり、こちらはかつては周囲9mの円塚があったとされますが風化の為か、それらしき形はありません。なお昭和17年に名古屋から移築された山王権現社本殿、唐門があります。
ここ「東首塚」には、関ヶ原の戦い(1600年)で無念の死を遂げた多くの戦死者が大切にお祀りしてあります。関ヶ原の戦いは、東軍西軍総勢15万人とも20万人ともいわれている日本史上最大級の戦いであり、天下分け目の戦いとして今もなお語り継がれている戦いです。多くの武将や兵士が死闘を繰り広げ、この地で、その戦功を首実検で確認し、その首を弔っていた場所であると思うと、心が強く揺さぶられました。敵味方なく弔われたといわれています。樹齢400年のスダジイやイチョウの巨樹が、天高く聳えて大きな樹冠を呈し、根を広く伸ばして戦死者の御霊を包み込み守っています。合戦の実態や、日本人の心性を今に伝える、とても貴重な史跡です。
JR関ケ原駅のすぐ西の跨線橋を渡ると、左手に広葉樹の森がありその中に「東首塚」があります。当時は、勝った武将が戦で散った亡き骸を葬ることになっていました。朱色の大きな門を抜けると、その奥にスダジイの大木が茂った塚があります。この塚は関ケ原合戦後、徳川家康が床几場で首実検をし、その後東西2ヶ所に埋葬したことから「東首塚」と呼ばれているのです。この首塚に、当時この地の領主であった竹中重門が、家康の命により関ケ原の戦いで戦死した兵士たちを埋葬しました。この首塚に埋められている戦死者の数は定かではありません。しかし、西軍・東軍、計15万人の兵がぶつかったといわれる関ケ原の戦いの規模を考えると非常に多くの戦死者が眠っているものと考えられます。関ケ原の戦いで裏方を務めた女性たちの仕事の1つに、首化粧がありました。首化粧とは、男たちが取ってきた首をきれいに洗い、お歯黒を付けたというものです。当時、お歯黒は身分のある者に限られていたので、首化粧をすることで少しでも良い恩賞を彼らに得させようとしたのです。アクセスは、東海道本線関ヶ原駅下車🚉徒歩2分です。
この下に一体どれほどの首が埋葬されたんでしょうか。巨木だけが知っているのでしょう。
10/2 関ヶ原巡り樹木素晴らしい。
東首塚とは、関ケ原の戦いで打ち取られた者の首、捕虜にとられた者の首、斬首刑にさらされた者の首を供養するための塚です。武将などの位の高い者の首だけでなく、雑兵という一般の兵士なども供養されています。関ケ原の戦いでは、約8000人、鉄砲傷・刀傷が原因で数年後に亡くなる人を含めると約1万人もの人々が戦死したと言われています。そのような人々が供養されるように、この土地の領主であった竹中重門が東首塚・西首塚を作ったそうです。朱色の真っ赤な門が印象的です。また、敷地内には、「血洗いの井戸」と呼ばれるものもあります。大きな広葉樹も植えられています。関ケ原の戦いを知る上では忘れてはいけない場所です。徳川家康軍が勝利をしましたが、その裏には多くの人々が命を落とされたということもあったんですね。敷地内は綺麗に整備されており、ベンチなどもあって休憩することが可能です。関ケ原の戦いにおいて、なくてはならなかった場所。歴史に名を残す戦いを学ぶ際に一度足を運ばれてみてはいかがでしょうか。駐車場:5台(JR関ケ原駅から近いため、徒歩で行くことも可能です。)トイレ:なし。
⭐️国指定の史跡名勝天然記念物⭐️⭐️天下分け目の戦い終了後、関ヶ原を所領とする竹中重門が徳川家康から供養料千石を賜り、破壊された寺社仏閣の修繕や戦死した兵の供養に当たり「東首塚」と「西首塚」を整備、多くの兵士の魂を供養🤔⭐️JR関ヶ原駅から「関ヶ原古戦場記念館」に向かう途中にあります、特に駐車場はありません、車の通りもあるので路駐は厳禁、駅から徒歩か記念館の駐車場に利用して訪問が良いです🚗
今は古木が残るのみの場所。説明看板などはあるので見ておきたいところです。
首塚が、埋もれてしまわないように先人が整理していただいた場所です。東軍西軍共に安らかにお眠りください。
| 名前 |
東首塚 |
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| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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東首塚駐車場は、ありませんのでご注意。天下分目の大合戦の末、討死した兵(つわもの)どもがあちこちに屍だけを残し首実検の後、慰霊碑の如く首だけが大樹の下に眠る地。