ととろが出てきそうな松尾神社。
松尾神社の特徴
松尾神社の本殿・拝殿は町有形文化財です。
書き置きの御朱印がキャッチーと評判です。
松尾神社は長久保宿の山裾に位置しています。
長和町長久保宮所の松尾神社本殿は、三代立川和四郎富重。1860年に再再建されたもの。拝殿は、佐久郡茂田井村の別府兵左衛門秀信。文政10年(1827年)建立。祭神は、大山咋命(おおやまくいのみこと)で、本社は京都の松尾神社。酒造守護の神として往古より酒造家の尊信が厚く遠方より参詣する人々も多くいました。以前は長久保の町裏地籍にありましたが、小学校の校庭拡張のため昭和33年5月に現在地に移転しました。(長和町教育委員会の説明板から抜粋)境内は皇大神宮式年遷宮として御柱が2柱(長久保神社総代)。摂末社として、皇大神宮(社殿)、山神社(社殿)、市神社、産泰社、伊雑皇社、金比羅社、八幡社、白山社、白山神社(以上木祠)、その他名称がわかるものとして、九頭龍大権現、大山津見社、愛宕神社、田神社、山神宮社(以上石祠)など、石碑石祠が数多く見られる。
書き置きの御朱印が有ります。お金は御朱印が入っていた箱に納めるようです。
今では、松尾神社は長久保宿の下手の街外れの山裾にありますが、もとは長久保グランドの南東側脇にあったそうです。1658年に長久保小学校が拡張されたときに、松尾神社は現在の位置に移設されたのだとか。そこが上町だったのです。ところが、水害を避けるために中山道がより上の段丘に移され、現存の横町に上町が移動しました。しかし、宿場町への入り口を扼していた松尾神社は、昭和期までそこにとどまっていたのです。だとすると、この場所には古くから長久保集落の氏神やら別の郷社やらがあったようです。この神社は、京都の松尾大社の祭神を分霊勧請して祀ったものだとか。そのときの神社の神官、秦宿祢の家門は、松尾大社の神主秦家から分かれたものだといわれています。秦家は松尾神を奉斎してきました。秦氏といえば渡来人家系で、長窪から和田郷までの一帯で有力家門だった羽田家の祖先です。この一帯でも、秦族は村落建設や農耕地開拓で指導的な役割を果たしてきたということなので、古代、長窪での開拓が始まったときに、松尾大社と秦家の影響下で郷社を創建したのかもしれません。とはいえ、この神社の創建をめぐる史料は残されていないので、いつ頃に創建されたのかは不明です。それでも、1557年に荒廃していた社殿を再建したこと、1599年に真田信之が社領地を寄進したことが記録されているそうです。現存の奥殿(本殿)は、1860年に第三代の立川和四郎富重の手になるものだそうです。ところで、松尾神といえば、狂言謡曲のもあるとおり「酒の奉行」つまり「酒造の守り神」です。この神社も、往古から近隣の酒造業者によって厚く信仰されてきたようです。
Twitter、Facebook、御朱印のある神社です。
ととろが出てきそう(^^)
名前 |
松尾神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
3.8 |
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町有形文化財(本殿・拝殿)