武田信義館跡で歴史探訪!
武田信義館跡の特徴
甲州に移った初代武田信義公の館跡地です。
住宅街と畑に挟まれ、美しく管理されています。
地元の人々が大切にしている歴史的なスポットです。
いよいよ甲斐源氏[武田氏]発祥の地からの三番目の拠点地、武田信義館跡(韮崎市神山町武田)にやってきた。駐車場はないが、館跡入口付近の道路が広いので少々路駐をさせて頂いた。館跡までは田圃の畦道にコンクリートを打ったような道路があり、そこから館跡に行ける。周辺には雑草が生えていたが、館跡は奇麗に清掃されていた。地域の皆様から大切にされているのだな~と感じた。源(武田)信義は源(逸見)清光の次男として生まれたが、長男の(逸見)光長とは一卵性双生児である。幼名を龍光丸と言い、13歳で武田八幡宮にて元服し、武田太郎信義と名を改めた。さて、甲斐源氏[武田氏]発祥の地を訪ねる旅をしてきたのであるが、ここで旅の整理をしたい。甲斐源氏の祖は、名目では源義光(新羅三郎)であるが、実質的には甲斐源氏二代の「義清」と考えた方が妥当だと思う。実際に義清は最初に市河荘(甲斐源氏発祥の地)、後に逸見荘に移り住み源氏勢力を拡大扶植している。一方、甲斐武田氏の祖は、通説で(地元でも)甲斐源氏四代「信義」とされている。武田荘にある武田八幡宮で元服し、名を武田太郎信義と改めたのなら当然であろう。因みに、信義館跡は現在の“神山町武田”にあり、武田八幡宮は弘仁十三年(822)に勅命によって九州宇佐神宮の御分霊を勧請奉祀し、地神の武田武大神と併祀したのが起源であるのである。しかし、一般的には“武田”の名乗りは、甲斐源氏二代義清が常陸国那賀郡武田郷に領地を得たとき“武田冠者”と称して始まったと云われている。甲斐源氏三代逸見清光の長男光長が“逸見” を継ぎ、次男信義が“武田”を継いだと考えることもできる。どうもスッキリしないが・・・これ以上は限界なので深く考えないようにする。
甲斐武田氏初代武田信義公の館跡‥住宅街と畑に挟まれていますが、地元の方々に綺麗に管理されているようでした✨駐車場はないです。バイクで近くまで行き路駐させて頂きました🏍
整備されている場所は小さく、周りは民間隣接、畑に廃棄物。微妙です。
説明看板に偽り有り。歴史事実を書いていない。武田家の発祥が韮崎だと書いてあるが間違っている。
案内看板の内容が独善的です。何が何でも山梨県に結び付ける県民性の悪い部分が滲み出てます。武田氏は常陸国が発祥です。百歩譲って、本流のルーツを名乗り上げても許されるのは京都でしょう。
茨城県が発祥の武田氏が、山梨県では「山梨が武田氏発祥の地だ」って変化してしまう。 まさに厚顔無恥な山梨県民。茨城県の武田氏が移住したから武田の地名になったのは山梨県以外では常識でしょ。
せっかくの史跡なのにウソの説明で台無し。
立ち寄るべき。
住宅街のど真ん中にあります。市の案内板が大きく掲げてあるので迷うことはないでしょう。邸後ですが小さな坪庭のように回りに柵があり、説明の看板があります。歴史に触れるよい散策かと思います。韮崎駅から一時間は歩くと思います。バス亭からもけっこうあるきます。駅前の観光案内所で電動自転車を借りて行くのがおすすめです。回りの景色を楽しみながら史跡を巡るのもいいもんです。
名前 |
武田信義館跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP |
https://www.city.nirasaki.lg.jp/bunka_kanko_sports/bunka/4/2738.html |
評価 |
3.9 |
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茨城の武田郷から甲州に移って実質的武田氏初代の信義の舘跡です。周辺は宅地、畑でその中に史跡として残ってます。ここと合せて詰城と言われる白山城と武田八幡宮を訪ねるのをお勧めします。