関城跡で土竜攻めの歴史探訪。
関城跡の特徴
関城は平城であり、南北朝時代の重要拠点である。
土竜攻めで有名な歴史ある城跡に訪れる楽しさ。
林に囲まれた静かな場所へ直線道を歩いて到着する。
関城は、結城氏の一族である関氏によって築かれた平城で、南北朝時代には南朝方の重要拠点となりました。1341年に北畠親房が小田城を追われて入城し、以後2年間にわたって北朝方と激戦を繰り広げました。1343年に落城し、城主・関宗祐とその子・宗政は討死しました。この際に親房が結城親朝に送ったとされる『関城書』は、江戸時代の尊皇思想にも影響を与えました。現在は国の史跡に指定され、土塁や堀、坑道跡などが見学可能です。
2019/5/6こちらの北方にある井上城とは違い遺構がある。巨大な土塁や堀の跡が明確に遺っており、規模も結構大きい。ここは伝承では南北朝時代に廃城になったということだが、今見える遺構は大規模かつそれなりに技巧的であり、戦国時代まで何らかの形で使われていたのではないかと思った。大宝沼に浮かぶ水運を確保する拠点だったと思う。
結城城から結城氏に所縁のある関城跡に来た。車でゆっくり走って30分程度である。広い駐車場があり、簡易トイレも設置されているので助かる。因みに、駐車場からほぼ真東に見える筑波山は美しかった。城跡は台地の上にあり比較的平坦で巡り易い。昔は東・南・西の三方を大宝沼に囲まれ、北側は堀で守られ、中々の堅城だったらしい。主な見どころを含む見学ルートをお奨めすると、駐車場から①高師冬の坑道跡、ここから台地の下に降り八幡神社を廻り込んで、②八幡神社周辺の土塁、今度は台地を登り関城通りへ出たら、③近辺左右の土塁・堀跡、その後関城通りを南に進み、④関宗祐・結城直朝(直朝は下総結城氏7代当主で、関城合戦では北朝方として戦った。宗祐の墓と大分差がある)の墓、更に南に進み台地を降り右回りに台地を廻り、⑤大将山公園(ここには『守永[もりなが]親王<尊良[たかよし]親王の子>別宴之地』碑がある)に出て、ここから駐車場へ戻る。ゆっくりめぐると1時間ちょっと掛かるが、城跡巡りを満喫できる。関城は建久三(1192)年結城氏二代朝広の四男朝泰が、関荘の地を相続し築いたとされている。そんな関城は南北朝時代の興国二/暦応四(1341)年~興国四/康永二(1343)年にかけて、関城合戦(関城・大宝城の戦い)が繰り広げられたところで有名である。南朝方北畠親房は、延元三/暦応元(1338)年5月北畠顕家(親房長男)が和泉国石津合戦で戦死し、同年7月越前国燈明寺畷合戦で新田義貞が戦死し、南朝方が劣勢になると、東国の南朝勢力拡大を図るため、難破等の辛苦を乗り越えやっと常陸国小田城へ、その後小田城が陥落すると関城へと移り、北朝方と戦った。しかし、関城主関宗祐・宗政父子は高師冬(高師直の猶子)の総攻撃を受け討死し、親房はかろうじて脱出し吉野に逃れた。尚、親房はこの関城で、小田城で書いた「神皇正統記」に筆を加え完成させたと云われている。《2023.10.21訪問》
お城としては分かりにくいです。攻城時の坑道あとがあるのは面白いです。当時の攻城の距離感(鉄砲がない時代)を感じられるかも。南北朝期が好きな人であれば、ここが関城かって思い入れだけで楽しめますね。
南北朝期の城跡で土竜攻めで有名な城です。地元民程「なんにもねーど?」と言うけど土竜攻めをした坑道跡(立入禁止)がぽっかり口を開け、城内には断片的に土塁や空堀等の遺構が眠っています。個人の土地なので、侵入は控えましょう。戦国期に使用されなかったのか発掘調査後の復元なのか、大宝城と似たような遺構の残り方でした。関城通りに専用駐車場があり、のんびり散策出来ました。
無料駐車スペースから直線道なりに歩くと林に囲まれた場所に到着します。城跡ではありますが石垣や櫓等はなく、あるのは石碑とお墓でした。小ぢんまりとした場所でしたので直ぐに回れると思います。駐車スペースは大きいですが、私の一台のみであまりこちらに来るお客さまは居ないのかもしれません。
| 名前 |
関城跡 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
3.3 |
| 住所 |
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下妻駅からタクシーで訪問しました。土塁や坑道跡など、見所が多いです。