藩境の歴史、太田川沿いで。
柳川久留米藩境の特徴
太田川に位置する藩境の歴史が感じられる場所です。
立花柳川藩と有馬久留米藩の歴史が交差する重要な史跡です。
水道土木の地図に記載される藩境を訪れてみませんか。
立花柳川藩、有馬久留米藩になった時の藩境。ここから柳川往還西側堀以東は、東西に走る堀の北が久留米、南が柳川領となりました。三瀦郡、山門郡境で、北が矢加部村(久留米)、南が南矢加部村(柳川)に分断されました。以前は神事の縄、幟などがあり藩境であったことが示されていました。なお、現在の東蒲池、西蒲池は柳川領となっていました。このように柳川城下近くに藩境が引かれたのは、再封となった立花宗茂が、柳川の地形から柳川の発展には矢部川の水が欠かせないとして、肥沃な筑紫平野の大半を久留米に譲る代わりに、矢部川上流水域の拝領を徳川に申し出たためです。しかし徳川は、本郷より上流を矢部川を藩境としたため、両藩による水争い(堰の作りあい)が幕末まで続くこととなります。
名前 |
柳川久留米藩境 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
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藩境となった水路は、「太田川」と言われ、水道土木の地図にはしっかり記載されている。花宗川水系の至らない現在の柳川市昭代地区、大川市川口地区へ水を送ってる。ここも徳川による、いじわるな線引きがなされたらしい。