歴史を感じる石山本願寺跡。
石山本願寺推定地の碑の特徴
戦国時代に名を馳せた石山本願寺の跡推定地の一つです。
織田信長が対立した歴史的な要害の地として知られています。
大坂城築城の背景にある石山本願寺の重要性が感じられます。
大阪城といえば、石山本願寺跡に建てられた城ですので、旧跡と推定されるこの地は訪れたいと思っていました。
石山本願寺ここから移設されたのですね。
室町時代から戦国時代初頭にかけて絶大な勢力を誇った石山本願寺があったとされる場所。大阪(大坂)という地名が初めて登場したのは1498年に本願寺の蓮如が書いた「御文(おふげ)」の中です。その蓮如が1496年に摂津国に築いたのが大坂御坊であり、京都の山科本願寺が焼失した際に本山の機能を大坂御坊に移し、石山本願寺と呼ばれるようになりました。顕如の時代に織田信長との激しい戦いの末、講和が結ばれ、顕如は石山本願寺を退去。その後、石山本願寺は焼失し、その跡地に豊臣秀吉が大坂城を築きました。
信長と対立して滅失してしまいましたが、当時の隆盛は如何だったのでしょう?
☆織田信長が「天下布武」の過程で最も苦戦した「本願寺蓮如」の在所した一向門徒との激戦地『大坂本願寺(石山本願寺)』の跡推定地❗️信長vs本願寺勢の戦い1570(元亀元年)~1580年(天正8年)と10年間と長きに渡る要害の地、講和後、信長この地を手に入れ「織田信長」自身も築城を計画、計画途中の1582年無念にも本能寺で横死⚔️その後、羽柴秀吉が信長の構想を現実化し1583年から『石山本願寺』の遺構も利用し築城開始、それが難攻不落の大坂城の始まり🏯☆石山本願寺の遺構は、現在の徳川大坂城、その下の豊臣大坂城の更に下に埋没、上町台地の北端、北の淀川が天然の濠、その支流が三方を流れ、瀬戸内海に望む難波湊と水上交通の要所、色々な意味で最良の場所だった😁
現在の大阪へと続く始まりの場所(大阪)という地名が歴史上初めて姿を現すのは明応7年(1498年)に本願寺第8世蓮如の書いた(御文)の中です、その蓮如が明応5年(1496年)摂津国に築いたのが大阪御坊であり天文元年(1532年)に京都の山科本願寺が炎上した際に本山の機能を大阪御坊に移転し石山本願寺と呼ばれる様に成った、(推定地)とされているのは秀吉に依る大阪城建設に依る大規模な工事により石山本願寺の正確な場所が不明だからで有る。
ここが本願寺の跡推定地みたいです。凄く大きかったんでしょうね。
石碑のさくら🌸が満開。
戦国時代ファンなら、こちらを見るべきでしょう。無料ですし。
| 名前 |
石山本願寺推定地の碑 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
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一向一揆でお馴染みの石山本願寺の総本山があった場所。説明板はありますが遺構はなくここにあったかもと推定される場所です。寺自体が要塞化され大坂城•大阪の街のベースにもになっています。大阪城のメインの場所から離れてることもあり人目につきにくいです。