大津市役所裏で歴史を感じる。
弘文天皇 長等山前陵の特徴
壬申の乱で崩御した弘文天皇の陵墓です。
大津市役所の裏手に位置する静かな天皇陵です。
歴史好きにとって訪れる価値のある円墳です。
死後、大友皇子の首は大海人皇子の元に届けられましたがその後の事は記録に残っていません。過去に政争で粛清された皇族達の墓が大津皇子を例外として陵墓の形では殆ど残されていない事から大友皇子も同様に目につかない形で埋葬されたのでしょう。もしかしたら山崎の地で代々伝えられていたものかも。明治になり大友皇子も天皇にカウントするようになり陵墓が必要になった時に思い出されて近隣の古墳が宛てがわれたのかなと思います。
親友が大津市役所に用事があるというので、即座に弘文天皇の御陵があることを思い出し、用事に付き合うことにして、久しぶりに訪れることができました。実は山科に住んでいて、天智天皇山階御陵には近いのですが、大津市役所には行く機会があまりないので、訪れることができてとても良かった。今回行って初めて気づいたが、御陵の脇に大きな鳥居があり、道なりに進むと国宝・新羅善神堂があり、その脇道をさらに進むと、源頼義の三男・新羅三郎義光のお墓があることが分かった。建立の順としては恐らく新羅三郎義光のお墓→新羅善神堂(室町時代に足利尊氏が再興し豊臣秀吉により破壊され後に再々興)→弘文天皇御陵(長らく大友皇子の呼称だったが、明治天皇により第39代弘文天皇と追贈されこの地に御陵を策定し整備)となると思うが、時代の異なる歴史的建造物が隣接しているのが不思議な感じがする。しかし、元はといえば智証大師円珍が比叡山を下り、三井寺(園城寺)を建立したことが縁で新羅三郎義光もこの寺の中にあった新羅善神堂で元服し、足利尊氏も再興し、三井寺の実際の大勧進は大友皇子の子どもと伝えられているから、園城寺の御本尊が大きな鍵なのかもしれない。それから、御陵内に植えられている樹木や苔類も手入れが行き届き、素晴らしいと思います。
天皇陵はいろいろな所にあり、この弘文天皇陵は大津市役所の裏にありました。なかなか拝所までの入り口が見つからないので参拝される人は少ないかなと思います。唯一滋賀県にある天皇陵ですが、滋賀県にある理由は、この弘文天皇が壬申の乱で天武天皇と戦った大友皇子を指すからです。教科書には「弘文天皇」の記載はなく「大友皇子」となっています。それもそのはず、日本書紀には大友皇子が即位したという記載がされておらず、明治時代に「弘文天皇」という諡号が贈られたのです。一応、671年〜672年の8ヶ月だけ天皇だったということになっています。弘文天皇長等山前陵(こうぶんてんのうながらやまさきのみささぎ)は、円丘で空の堀を持っています。弘文天皇(648〜672)は、天智天皇の死後、後継争いによっておきた壬申の乱で大海人皇子に敗れ、僅か25歳で亡くなりました。
滋賀県大津市の市役所裏にある天皇陵です。滋賀県にある唯一の天皇陵になります。672年に起こった、有名な壬申の乱に関係しています。672年1月、大津京の宮を収めていた38代天皇の天智天皇が亡くなりました。その後継をめぐり争いました。当時は天智天皇の後継は、天智天皇を産んだ母方の子供が継ぐことになっていました。これからすると、天智天皇の弟の大海人皇子になりますが、天智天皇は、その掟を破って、成績が良かった自分の子供である大友皇子を据えることにしたのです。これに意を唱えるた大海人皇子(後の40代天武天皇)が大友皇子(後の39代天皇)に仕掛けた反乱戦争になります。結果は、瀬田の唐橋に陣取り橋板をとり大海人皇子を迎えますが、これが最後の闘いになり、翌日大友皇子は、前山(さきやま)で首を吊りなくなっています。お父さんの近くの大津京の宮の近くの現在の大津市役所裏に陵墓をおきました。1870年になり、明治政府は、7か月天智天皇の跡を収めていたと認めて、39代天皇になっています。それで弘文天皇陵を造っています。アクセスは、京阪石坂線大津市役所前下車、徒歩3分です。JR湖西線大津京駅🚉下車し、徒歩で10分になります。
大津市役所の裏手に当たります。市役所の駐車場に裏側へ出る石段があり、数段登ってすぐにあります。宮内庁の管轄なので敷地には立ち入れませんが、鳥居と、円墳の墳丘がみえます。
天智天皇の近江朝の後継者ながら(皇后称制説もありますが)壬申の乱で天武天皇に敗れ、明治になってようやく弘文天皇と諡された大友皇子の陵です。長等山で自害されたという伝承から此の地に定められたようですが、関ヶ原近くの三本杉の自害峰も弘文天皇御陵候補地となっています。三井寺(園城寺)の新羅善神堂の近くで、大津市役所の裏手にあります。静かな静かな天皇陵です。
壬申の乱で崩御された大友皇子、のちの弘文天皇の陵墓です。実際には戦乱で亡くなったみたいですのでここに埋葬されている訳では無いようです。明治期に整備された陵墓です。ひっそりとしたところにあります。古代日本最大の内戦の壬申の乱を偲ばせる場所です。
被葬者:第39代・弘文天皇宮内庁により、第39代・弘文天皇の長等山前陵に治定されています。弘文天皇は飛鳥時代を生きた方で、父は第38代・天智天皇、母は伊賀宅子娘です。拝:2020/10/11
天智天皇の第一皇子、大友皇子こと弘文天皇の陵墓。天智天皇の崩御の後、壬申の乱でわずか半年しか生きられなかった不遇の天皇で、明治時代まで皇位継承者として認められなかったらしい。近隣は皇子山と呼ばれ大友皇子にゆかりのある地名になっている。近年になってJR西大津駅も大津京駅に名称変更されたが、天智天皇の遷都から天武天皇の治世となるまで、わずか5年の短い期間であった。大津市役所・消防署の裏手にあるので見つけにくい。こんもり茂った森を目印に、消防署右の道から入ってください。
名前 |
弘文天皇 長等山前陵 |
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ジャンル |
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電話番号 |
075-541-2331 |
住所 |
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HP | |
評価 |
3.8 |
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壬申の乱に敗れた。大友皇子の御陵に指定されている弘文天皇陵。