歴史感じる広島東照宮。
広島東照宮の特徴
徳川家康を御祭神とした神社で、日本の歴史を感じられます。
現存する被爆建物の一つで、重要な文化財としての価値があります。
広島駅から徒歩15分程度でアクセスも良好な立地です。
広島駅の新幹線口から徒歩10分程度の場所に佇む東照宮。広島の市街地を見守るような小高い地に鎮座していますが、この社も原爆投下で甚大な被害を受けました。社殿近くには、東照宮ゆかりの本地堂も復元されています。また、寅の日には特別御朱印を拝受できます。
広島城の鬼門を守護する『広島東照宮』に参拝に上がりました⛩️✨拝殿・本殿の鮮やかな朱色も美しいけど、唐門のダークな朱色も心惹かれます😊原爆により拝殿や本殿は焼失しましたが、唐門、翼廊などの社殿は全壊や焼失を逃れた現存する被爆建物の一つだそうです。主祭神は日光東照宮と同じく徳川家康が祀られています😌
真夏の太陽のもと階段を登り続けると折り鶴がたくさん。奥の院までは行けませんでしたが、パワーはいただけたと思います。8月限定の平和の御朱印と、寅の日だったそうでこちらも限定の御朱印をいただきました。
週末に家族旅行にて参拝。広島駅か歩いて約15分程度で到着。着いた途端、急な階段でちょっとげんなりしましたが、階段を登り切ると綺麗な本殿が見えてテンションアップ。ちなみに年配の方は、本殿横まで車で上がれる舗装道路があるので、車で上がってもらって、そこで降ろしてもらう事をお勧めします。駐車場は本殿下に約20台分位ありますが私が日曜日の昼時に行った時は満車でした。さて、建物に向かうと綺麗な赤色を基調とした建物。早速本殿に近づくと、ちょうど七五三を行っていた方達がおられ、写真撮影を行っておりほっこり。ここは七五三も含め、どちらかと言うと安産などを祈願に来られる方が多い様子。そこまで大きくはないが、赤を基調とした良い雰囲気を醸し出す神社でした。
広島駅から歩いて15分くらいで行ける広島東照宮。(思った以上に駅から近くて便利)急な階段があるから、お年寄りは本殿横まで車で上がれる道があるのでそっちがおすすめです。(これまた結構キツイ💦)駐車場は20台くらい停められるぐらいの広さで下。(聞くところ休日はすぐ満車になっちゃうみたいです。)さて、神社に着くと、赤を基調にした綺麗な建物が目に飛び込んできます。特に漆塗りの本地堂は見事で、「美の極地」なんて言う人もいるくらい。(半端ない圧倒感(;゚Д゚))境内に敷き詰められた白玉の石が邪気を払ってくれるせいか、すごく清浄な雰囲気なんです。(踏むたびジャリジャリ♪)ここは安産祈願や七五三、厄除けなんかで来る人が多いみたいです。また寅の日限定の御朱印もあるんですよ。かっこいいから、集めている人にはおすすめです。(ちゃっかり受け溜まりました)本殿の奥には金光稲荷神社があって、そこからさらに500段の階段を登ると奥宮と平和塔があります。ちょっとしたハイキングみたいで、体力に自信がある人は挑戦してみるのもお勧めです。(私は途中で断念)それと、ここは被爆建物の一つで広島市の文化財にもなっているんです。歴史を感じながら、神社からの市街地の眺めを楽しむ事もできます。境内には樹齢何百年という松の木もあって、自然に囲まれた癒しの空間になっています。(神聖な空気)ただ、山頂の奥宮からは御神気の流れがあり、それを怖いと感じる方もいるみたい(、、、私だけ?)全体的には由緒ある神社の荘厳な雰囲気と、美しい建築、それに自然環境が調和した素敵な場所と大評判です。広島に来たら、ぜひ立ち寄ってみてください。
寅の日参りに行ってきました。前回伺った時には修復中だった本地堂も綺麗になっていました。唐門は見事ですね。今回は裏手の金光稲荷神社にもお参りしましたが奥宮までは行けませんでした。次回は500段の階段を登って奥宮と平和塔へ行ってみるつもりです。
広島駅から徒歩で行ける距離本堂までは急な階段ですが、駐車場が本堂の裏にあり階段が大変な人も安心。奥院に登る階段はわかりにくいですが、鳥居もあり景色もきれい(今回は雨でしたが。)なので登る価値あり。
徳川家康公を御祭神にお祀りした神社です。家康公薨去後33年忌に当る慶安元年(1648年)、当時の広島藩主浅野光晟公(浅野家第四代)によって、広島城の鬼門(北東)の方向に当たる二葉山の山麓に造営されたそうです。青空をバックにして階段下から眺める東照宮は、美しいです。ご朱印は16時までですから、お気をつけて。
初めて参拝させていただきました。階段を登ると眺めの良い神社です⛩
名前 |
広島東照宮 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
082-261-2954 |
住所 |
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HP | |
評価 |
4.2 |
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御祭神・東照大権現(徳川家康)慶安元年(1648年)創建され徳川家光は日光東照宮を建立後、諸大名に東照宮の造営を勧めたため、全国各地に東照宮が創建されていった。広島東照宮もその中の一つであり、藩の多大な経費を用いて建立された。広島藩主二代目「浅野光晟」は、生母である正清院が家康の三女であることから特に造営に熱心であった。岡山藩の池田光政が全国初、東照宮を勧請、幕府に忠誠を示し領民に対し権威の象徴にした事も挙げられる。明治三年(1880年)社領が廃止される。明治四年(1881年)藩主が東京へ移住の際に、神霊も東京に移された。その後、広島市内の有志が浅野家へ神霊を戻すように懇願。のちに神霊がもとに戻された。明治八年(1885年)県庁へ願い出てに村社に列する。大正三年(1914年)神饌幣帛料供進社に指定される。太平洋戦争当時、南下の参道には東練兵場が広がり、境内には大日本帝国陸軍第二総軍通信隊の通信兵約20人が常駐していた。また空襲の可能性が低い区域のため、民間だけではなく公共機関の避難所にも指定されていた。ただ、安全性が高いとされた事から社宝は疎開の措置が施されず、そのまま境内に安置されていた。昭和二十年(1945年)原爆を被爆、爆心地から約2.1kmに位置した。爆風により建物の瓦や天井が吹き飛び北方に傾き、石造の鳥居が跡かたもなく吹き飛ばされた。熱風によりまず拝殿から出火し、瑞垣や本殿、神馬舎へ延焼した。その後も被害が広がりつつあったが通信兵の手により更なる延焼から免れ全焼は回避された。また社宝は大部分が消失した。市内の被爆者が多数避難してきて大混乱となった。境内南下に臨時救護所が設けられ、通信兵や陸海軍救護隊や民間の医療救護班によって治療活動が行われ、特に重傷者は近くの國前寺へと運ばれた。さらに広島駅前郵便局および広島鉄道郵便局の仮郵便局が設けられた。幟町(現在の広島市中区)の実家で被爆した作家・原民喜は7日夜、親族とともに境内の避難所で野宿して覚書を記した。後日それを元に小説『夏の花』を執筆した。昭和二十一年(1946年)境内を片付けはじめ、半焼松材や市内の不要となった電柱を使って、仮拝所が設けられた。昭和四十年(1965年)東照公三百五十年祭を期に社殿を再建。昭和五十九年(1984年)本殿および拝殿などを建て替えた。平成二十年(2008年)〜被爆により傾いた唐門と翼廊を文化財建造物保存技術協会の指導のもと、保存修理工事が行われた。御朱印あり寺社巡りショート動画https://youtube.com/shorts/hrlowZlN5NM?si\u003dYMJh1tMfz09WSy60寺社巡り動画https://youtu.be/Xi_aI3Dc9Qc?si\u003d3UpdLu1lILTn756J