厳島合戦の舞台、宮尾城跡。
宮尾城跡の特徴
小さなながらも歴史的意義のある宮尾城跡です。
厳島の戦いが繰り広げられた貴重な城の跡です。
安芸国佐西郡厳島に位置する歴史深い場所です。
厳島合戦の際に毛利元就方の布陣した城。遺構はほとんどなく曲輪が分かる程度。厳島合戦の舞台となった城でありながら、あまり観光的に整備されておらず、要害山の看板と古戦場跡の看板がある程度で城を示すものの設置はない。陶晴賢方の布陣した五重の塔あたりを見渡すと厳島合戦の状況を想像することができて感慨深い。
ほんの少し登れば本郭に行けます。上の方には二の郭などイメージできそうなものはあります。ただ誰も存在も気にしていないのか来ませんね。厳島合戦で重要な役割を果たした城です。毛利元就好きなら来てもいいかもです。
飲食店のわきの坂をちょっと上ったところにある東屋と広場近辺が城跡。何もないところだが、日本史上の重要ポイントだけに訪問者は多い。地形の構造見ても大規模な城砦があったとは到底思えず、単なる急ごしらえの砦が建ってただけなのだろう。実際にここに上ってみても、陶晴賢ほどの武将がこんな小城をつぶすためにわざわざ危険を承知で宮島上陸作戦を御大自ら実行し、結果背後を疲れ壊滅した理由がどうにもわからん。当事者しかわからない事情があったのかしら。
小さな城だが歴史的には大きな城。堀切が在るけど今は小路になっているのか?
宮尾城(みやおじょう)は、広島県廿日市市宮島町(かつての安芸国佐西郡厳島)にあった日本の城。別名宮ノ尾城(みやのおじょう)とも呼ばれる。城を含む島全体が、国の特別史跡及び特別名勝に指定され、瀬戸内海国立公園の一部でもある。毛利元就が厳島の戦いに先だって築城したとされる。1554年(天文23年)5月、防芸引分により厳島を占領した毛利元就はこの城に番兵を置き、補修に着手。6月に陶晴賢軍が海から襲来したが、上陸を阻んだ。1555年(天文24年)9月21日、厳島の戦いが起こり、毛利側が勝利。厳島北西にある要害山と呼ばれる標高30メートルの丘を中心に築かれた連郭式平山城である。現在と違い、当時は城北部の山麓まで海が迫っており、三方が海に面し、水軍の運用も可能な城であった。そのため、援軍として熊谷信直を送り込むことができた。城自体は決戦を前に急造された陣城のような城とされるが、脆く崩れやすい地盤を固めるために石垣も使用されている。また、築城にも人夫1000人を使って、1か月程度はかかっており、戦時急造の雑な城ではなかったと推測される。
厳島の戦いで有名。
撒き餌とされながらも奮闘‥‥‥寂しいこの現状は余りに寂しい。
厳島の戦いの舞台となったお城となります。遺構としては曲輪跡のみとなります。
かつてこの場所には、宮尾城と言う城があったという。しかし、現在は影も形も無く城の名残は一切残っていない。史跡も無く、あまり観光客もいないので、宮尾城は完全に忘れ去られた。
| 名前 |
宮尾城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
0829-30-9205 |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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厳島合戦の際に毛利元就方が布陣した城とのことですがそれを感じられるような遺構もなく景色も臨めないので雰囲気だけしか味わえません雑木林がなければ湾が見渡せるであろう小高い地点なので厳島合戦においてはそれなりに重要なポイントではあったのかなと想像します。