米山城跡で歴史探訪を楽しもう!
米山城跡の特徴
米山城跡は標高273mの小さな山に位置しています。
天野氏の居城である歴史的な重要な名所です。
城跡からの眺めは素晴らしく、訪れる価値があります。
米山城(こめやまじょう)跡、天野氏の居城。生城山(おうぎやま)城が居城になるまで居城だった。標高273m 比高20m 二つの郭からなります、その周辺に小郭が付属します。志和東天野氏の居城で興定の時に尼子方にき、大永5(1525)年、大内氏により包囲されます。元定に子が無く、元就の七男元政が養子として翌元亀元年、米山城に入城します。南北朝時代入部 志芳荘東村3分の1所領安堵1421年足利義持より志芳荘東村全部地頭職安堵1478~1485年 志芳荘一円+原村100貫+飯田村100貫。
名前 |
米山城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
5.0 |
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米山城(こめやまじょう)は標高273m、比高20mの小さな山にあったとされる城。頂上に大きめの郭が2段あり、その周辺に小さな郭がいくつかある。崩落が激しく、不明な点も多い。米山城は、天野氏(東天野)の居城とされる。天野氏は伊豆国田方郡天野郷に本貫地を持っていたが、中世になって志芳荘(志芳は志和の昔の表記)の地頭職を得て、鎌倉時代末期に志和東に入る。それ以来、12代・260余年にわたって志和東を支配した。築城時期は定かではないが、史料上の初見は1525年。当初大内氏に従っていた天野氏だが、南下してきた尼子氏の勢力下に一時入る。その後、大内氏が反撃に転じ、米山城を包囲。毛利元就の仲介で大内氏に降伏し、米山城は大内氏に接収された。その後、大内方で戦功をたて1528年に天野氏に返還されている。その後も天野氏の本城として使用され、1570年には、毛利元就の七男元政が天野家の養子として入城した。関ヶ原の戦い(1600年)の後、毛利氏に従って防長に移封されるまで、城として使われていたと思われる。■参考文献小都隆編、『安芸の城館』、ハーベスト出版、2020年。P.206〜209に米山城の解説がある。東広島郷土史研究会編著、『東広島の歴史辞典』、渓水社、1997年。米山城跡の解説の欄に、参考文献として「賀茂郡史中世武士編ほか」との記載がある。福田直記編著、『棚守房顕覚書』、宮島町、1975年。大永5年頃の記載に天野氏と米山城が出てくる。