桶狭間の戦い 鳴海城址巡り。
鳴海城跡の特徴
過去には桶狭間の戦いで重要な役割を果たした鳴海城がありました。
かつて海を背にした堅固な城であったことが知られています。
現在の公園には鳴海城跡碑や説明板がありますが、遺構はほとんど残っていません。
お城に相応しい場所!2023年10月上旬に鳴海宿探訪の際に寄りました。現地はよくある公園名勝標札はなし。ただ高台にあり、南側の道路からはかつては海だった住宅地が見渡せ、ここにお城を築くのは納得できました。
やや高台に有る鳴海城公園にかつて「桶狭間の戦い」で今川方の城主岡部元信が粘った鳴海城が有ったとの事。遺構は無い。城跡の石碑は向かいの神明社に有ります。
元々この辺りは海であった事により後を海を背に中々の堅固な城であったとの事です。築城者が愛知郡の安原備中守宗範という土豪で、応永年間(1394-1428)のことであったと伝えられている程度である。安原備中守亡き後、城は廃せられていたが、時が移って天文の頃(1532-55)に織田信秀が国境を固めるためにこの古城跡を取り立てて山口左馬助教継を城主とした。信秀亡き後、織田信長が織田家の家督を継ぎ山口教継は今川家に寝返り鳴海城は今川家のものとなり大高城の水野氏を追い沓掛城の近藤氏を味方に引き入れました。対織田の最前線となった鳴海城を取り囲むように織田信長は丹下砦、中島砦、善照寺砦を築きました。その後、桶狭間で今川義元が討ち取られその時の今川家臣の岡部元信が義元の首と引き換えに鳴海城を明け渡し駿河に帰国、戦後は佐久間信盛に鳴海城は与えらました。廃城になった時期は佐久間信盛が織田家を追放された時期とも。はっきりとは分かってないみたいです。現在は鳴海城の遺構自体は全くと言っていいほどありませんが民家の周りの高台に公園として残っているので雰囲気は味わえるかなと思います。
現在は公園になっています。これといった遺構はありません。
⭐️桶狭間の戦い史跡巡り⭐️~鳴海城址と鳴海宿周辺史跡~・公園自体に遺構は無いです、東側の「天神社」内に鳴海城跡碑と説明板🪦別名/根古屋城。・公園左側の道を北西方面に下って行くと「東福院」が在所、東福院山門に鳴海城廃材を活用したとの伝承、約460年前の木材⁉️・鳴海城跡公園から天神社辺り一帯が鳴海城、その他に鳴海宿本陣跡の説明板や復元鳴海宿高札場などを見ると鳴海宿の少なからずの名残りですね❗️⭐️興味深い武将⭐️【岡部元信(長教)】①1560年(永禄3年)…桶狭間の戦い🐎・今川義元討死、今川本隊壊滅し駿河に撤退、今川方/松平元康(徳川家康)勢も大高城から急ぎ岡崎に撤収🏃鳴海城だけが最前線に孤立 、城将/岡部元信、開城撤退せず籠城抵抗し織田勢の攻撃部隊を撃退、信長も手こずる😅交渉し「今川義元の首級と鳴海城開城」を交換条件に本国駿府へ帰還、ヘェ~😲②1581年(天正8年)…第2次高天神城の戦い🗡️・1575年長篠設楽原の戦いで武田軍大敗、徳川家康は遠江の武田方拠点/二俣城や諏訪原城を攻略、武田勝頼後詰に対応出来ず孤立した高天神城そして城将/岡部元信、徳川家康は兵糧攻め、最後は徳川方に対し武田方全城兵突撃し討死玉砕🐎⭐️vs織田信長(今川武将として)・vs徳川家康(武田武将として)、歴史上の大一番の戦に、何の因果か「岡部元信」2回登場、これも歴史か⁉️⭐️名鉄/鳴海駅から近く、車も周辺にコインパーキング多数あり、訪問しやすいです🚙🚶🚃
天神社に城址碑が立ち、向かいには鳴海城跡公園があるものの遺構は皆無。
住宅地の児童公園で遺構は全く見られません。城址碑や説明板は道を挟んだところ天神社に設けられています。
史上名高い鳴海城の跡ですが、児童公園になっていて標札以外それらしいものは見当たりません。しかし高台になっていてかつての城跡の雰囲気は十分味わえました。南の道路を隔てたところに小さな土塁がありますが、鳴海城オリジナルのものなのかは不明です。
良い(原文)Good
名前 |
鳴海城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
3.1 |
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2024年8月1日 説明板は向かいの天神社側です。城趾は単なる公園ですね。