徳川綱吉の歴史を感じる。
柳沢吉保側室 飯塚染子の墓の特徴
江戸幕府5代将軍徳川綱吉の寵臣、柳沢吉保の歴史を感じる場所です。
飯塚染子の墓がある中野区上高田は、歴史探索に最適です。
甲府藩主の名を持つこの史跡で江戸時代の雰囲気を味わえます。
柳沢吉保の側室、飯塚染子のお墓です。墓の脇に「甲斐少将吉保」という文字がかろうじて読めたので、このお墓だと分かりました。現地には一切解説はありません。吉保と染子の間の子・柳沢吉里は実は将軍綱吉の子ではないかという俗説があります。大河ドラマ『元禄繚乱』では、吉里は綱吉の子で吉保が吉里を将軍にしようと画策する様な流れだったかと思います。元禄繚乱では染子役を鈴木保奈美さんが演じました。
| 名前 |
柳沢吉保側室 飯塚染子の墓 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
4.5 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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江戸幕府5代将軍徳川綱吉の寵臣で老中を努めた甲府藩主です。刑部 (おさかべ) 左衛門安忠の5男で生まれ初めは房安,のち保明,吉保と改名されます。通称は主税,弥太郎と呼ばれた。父が当時上野国,館林藩主であった綱吉に仕え勘定頭を努めていたので,吉保も年少から小姓組に入った。延宝8 (1680) 年綱吉が将軍として江戸城西の丸に入ると供奉して小納戸役となり,元禄1 (88) 年には側用人として万石の列に入った。綱吉の意をよく解し側近としての能力もあったので,威権は老中を凌ぐほどであった。同7年老中格に同 11年老中上座を与えられた。学問を好み,禅にも明るく,世にいわれるような陰謀家,野心家ではなく,謹直誠実な性格であったらしい人柄です。幕閣においては政治上の卓越した経綸や施策を残してはいないが,荻生徂徠を 500石で召しかかえるなど儒者を好遇した。側室の霊樹院染子,正親町子はともに才媛で,町子の『松陰日記』は名作として知られている。宝永1 (1704) 年甲府に移封し 15万石を領したが,綱吉の死後は致仕して安泰をはかり,江戸駒込の六義園 (りくぎえん) に隠棲した。子の吉里はのちに大和郡山 15万1千石を領しております。また、柳沢吉保は江戸前期の幕府重臣です。重複致しますが名は保明です。幼少から館林藩主徳川綱吉に仕え,1680年綱吉が将軍になると側用人に登用された。その後,1694年川越藩主(7万余石)で老中格,1698年大老格,1704年甲府藩主(15万石)と異例の出世ぶりを示した。この間,幕政の実権を握って文治政策を推進,綱吉の意に投じた。綱吉の寵愛が強かったため,《護国女太平記》などの実録本によって悪辣(あくらつ)な策謀家との風評が流布したが,然程の悪人ではなく,綱吉に誠心誠意さや誠実に仕え,その意に従った優秀な側近といえます。家中に荻生徂徠らの学者を召し抱え,自ら北村季吟について古今伝授を受けておりました。悪名さは無く随分と一つ一つ詳しく拝見すると優秀でリーダーシップある人財とした。行き違い等々の切はご容赦下さいませ。本所亀沢町6代末孫。