別府城跡で歴史を感じる。
別府城跡の特徴
階段趣きながら進むと砂像が楽しめる歴史的な場所です。
日新公が居住していた戦国時代のゆかりの地を訪れました。
平安時代末期の別府五郎忠明にまつわる歴史が感じられます。
別府城跡階段が雰囲気を醸し出しています。夏場は紫陽花が両脇に咲き誇るようです。階段を登った先に別府城跡の石碑が建っています。
時間もないし疲れたので、竹田神社の駐車場から車に乗って別府城(加世田城)へ行ってしまいました。歩いて行っても500メートル程度5~6分で、歩けば益山用水路に沿った城下町並・史跡などジックリ見られて良かったと後悔しました。とりあえず車は道路の広いところでエンジン掛けたままの僅かな時間の路駐と、尼ヶ城公園の公衆トイレの脇の駐車スペースなど利用して見学しました。別府城は、別府忠明が1177(治承元)年築城し代々居城としましたが、1420(応永27)年薩州家島津家に降りました。その後、薩州島津家実久と相州(伊作)島津家忠良とが、宗家勝久の跡目争いで対立し、1538*(天文7)年忠良が別府城に猛攻を加えて攻め落とします。この結果忠良の嫡男貴久が宗家15代当主として名実ともに認められます。尚、日新公(忠良)はこの後加世田に隠棲します。*注)現地の沿革史に1439年とあるのは1539年のケアレスミスだと思います。
階段趣きあります。
砂像がありました。
戦国島津ゆかりの地 日新公が居住しておられた場所です。
私の遠い遠い先祖の一人はこのお城で生活していたようです。私にとっては感慨深い場所ですが、多くの人にとってはただの公園なのでしょう。
平安時代の末1100年ごろ、加世田を領有したのは平家一族の別府五郎忠明でした。忠明は加世田に別府城を築き、以来300年余年間別府氏の治世が続きました。別府城は、福寿城・尼ヶ城・中之城の三城に分かれていましたが、明治36年に加世田小学校がここへ移転した際、三城をならして校地にしたので、昔の姿はなくなりました。その上、昭和37年に城の大半が削られて、下の平地と同じ高さになってしまいました。ただ、尼ヶ城等の一部が東西に残っており、大手口も途中までは昔のおもかげを保っています。別府氏は1420年(応永27年)第8代島津久豊に降り、それから約120年間は、出水の島津氏が城主となりました。現在は市街地となり、石碑が建てられているのみで遺構は残っていません。公園になっており、隣に駐車場があります。
平安末期薩摩平氏の一族別府忠明が開いた城。一の丸、二の丸、三の丸からなり、川や湿地に囲まれ、難攻不落の要塞をなしていた。益山用水路、六地蔵塔、竹田神社、日新寺仁王像があり。
| 名前 |
別府城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
0993-53-2111 |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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別府城は今から約850年前の平安時代末期に別府五郎忠明によって築城されたとの事。また明治時代からは加世田小学校があったようですが、今はのんびりとした町の風景を眺められる公園になっています。