隼人塚で歴史のロマンを発見!
隼人塚の特徴
隼人族の供養塔として歴史を学べる貴重なスポットです。
小さな展示館の資料が興味深く心に響きます。
JR隼人駅から徒歩5分のアクセスが便利な場所です。
隼人駅から歩いている時に塔や像が目に飛び込んできました。公園の一部にあるって感じです。数メートル程の丘に三基の石塔と四体の像が鎮座しています。平安時代における仏教遺跡と考えられているようです。発掘された塔や像の一部や現存していたものを合わせて約800年前の形に近い状態で復元されました。塔は仏の世界を表現し、これらを邪悪なものから護るための四天王像だということです。近くに発掘状況などを説明する資料館があります。
五重石塔3基とその周りに石造の四天王が建っている。養老4年(720年)の隼人叛乱で落命した死者鎮魂のために建立されたとも、又はかつてこの地にあった寺院の跡とも。隼人塚という名称も近代になって「命名」されたよう。とはいえ、敷地内には隼人塚史跡館があって、隼人の歴史を解説している。なかでも平城京跡から出土した隼人の盾(複製)には、画像では知っていたが、実物はこんなに大きかったのかと驚く。そのデザインからマレーシアとの繫がりを示唆しているが、確かに南方由来であろう。ここから見える、ドンキの向こうの北にある山が、養老4年の叛乱で政府軍に追い詰められた隼人が最後に立て籠もった比売之城跡とか。それを聞いてふとそういえば数年前に山の上の学舎を包囲されては夜半、広大な校庭に武装警察と戦った人たちを思い出す。隼人も自由を求めて叛乱したとあり、そして多大な犠牲を出して失敗したのである。教えてくれた館の人と外に出て、遠くうっすらと霞む山を眺めてはともに無言なのであるが、往時の、そして数年前の遠い吶喊を確かに聴いたのである。
隼人塚、鹿児島県霧島市隼人町内山田。石塔3基、石像4体。平安時代の仏教遺跡=五重塔、四天王像。しばしば反抗、服従後は祭り等奉仕。隼人への想いを感じるための場所。町中に現れる小さな広場だが、国ができる頃へ触れられるような気がした。
隼人塚には、仏教文化の痕跡を示す重要な石造遺物が数多く残されています。その中でも代表的なものは、中心的な石像である四天王像です。この四天王像は、向かって左より増長天(南)、広目天(西)、持国天(東)、多聞天(北)の四天王が一石彫りで表現されたものです。また、隼人塚からは、様々な仏像の石造遺物も発見されています。坐像や立像など、多様な形態の仏像が出土しており、当時の仏教文化の様子を伺うことができます。さらに、石碑なども出土しており、碑文の内容から、当時の仏教に関する情報を知ることができます。その他にも、供養塔や石灯籠などの石造物も見つかっており、寺院の様子を示す重要な遺産となっています。これらの石像や石造物は、平安時代の隼人塚が有していた仏教文化の重要性を物語る貴重な遺産です。実際に隼人塚を訪れ、これらの石造物を見学することで、当時の歴史的な様子を感じ取ることができるでしょう(2024.03.03)
石塔が復元されており、さらに隣の史料館では説明を受け、興味深く勉強になりました。
隼人の盾は平城京でも有名で、この隼人塚を見学にきました。こぶりな展示スペースながら発掘した実物の展示もあり、解説も多く、隼人についての学習ができました。
隼人塚に小さい時から何となくロマンを感じていました。見学して本当に良かったです。資料館はポツンと小さかったですが内容は分かりやすく充実していました。隼人塚は思ったよりも大きくて迫力のある塚でした。石の四天王像も珍しいものでした。古事記では山幸彦は天皇家の祖先とされ、山幸彦に負けた海幸彦の子孫が隼人族となっており、大和朝廷に征服された事実と重なり興味深いです。また、隼人族は京都、奈良、大阪に移住させられ朝廷の儀式集団として仕えました。京田辺市に大住という地名がありますが、鹿児島の大隅からきた地名で、隼人族が移住した所だそうです。
🍀隼人族の供養塔 資料館あり🍀
コンパクトながら伝えたいテーマが明確なので心に響く😃
名前 |
隼人塚 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0995-43-7110 |
住所 |
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HP |
https://www.city-kirishima.jp/bunka/shisetsu/kyoiku/029.html |
評価 |
3.9 |
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小さいな資料館ですが、たくさんの手書きの解説があり、管理人の気配りを感じていました。ありがたいでした!