廃れた神社に宿る 伊東家の歴史。
五百禩神社の特徴
飫肥藩初代藩主の報恩公に由来する神社です。
かつての伊東家の菩提寺跡に位置しています。
廃れた印象の中に独特の歴史的風情があります。
どことなく虚ろな印象のある神社です。御祭神は大山津見神と伊東家祖先累代の御神霊です。五百禩(いおし)というのは500年お祀りするの意味だそうです。
飫肥藩の報恩寺跡にある 神社屋根瓦が、何年か前に、直してあった。氏子のみなさん ありがとうございます。国の文化財に神社の社殿が指定されている。みごとだ。報恩寺禅宗 臨済宗のお寺であった。神社の裏手のお墓の前に仁王様そして歴代藩主様たちのお墓が、並んでいる。飫肥藩の歴史を感じられる場所おすすめだ。
御祭神:大山津見神(おおやまつみのかみ)伊東家祖先累代之神霊五百祀神社〔五百禩神社〕(いおし神社)の前身となる旧報恩寺は、飫肥藩初代藩主伊東祐兵公(報恩公)のために建立された寺です。江戸時代には、飫肥三大寺の一つとして、寺禄百石の伊東家菩薩寺でした。明治五年に廃仏毀釈によって廃寺となり、その跡地に五百祀神社〔五百禩神社〕が建てられました。本殿が完成したのは明治九年(1876)四月九日で、明治三十七年(1904)には幣殿及び渡殿を改築しています。五百祀神社〔五百禩神社〕の「五百祀」とは、伊東祐持が西都の都於郡に城を構えてから、最後の藩主伊東祐相まで五百三十五年経ていたため、五百年祀るという意味で名付けたと言われています。現在は神社となっていますが、庭園は、旧報恩寺の庭園として作庭されたと考えられています。山の斜面に三連の石橋を架けるという意匠は大変珍しく、日本の庭園史上でも注目されています。この庭園は、大正時代に飫肥で活躍した庭師 田嶋万之助が手を入れたと伝えられています。平成二十二年(2010)九月十日には、本殿他4件が国の登録有形文化財(建造物)となりました。旧報恩寺が伊藤家菩提寺であったことから、神社本殿の背後には伊藤家累代墓地と小村寿太郎墓、伊東左門家、旧報恩寺住持の墓などがあります。また、隣接する台地上には西南戦争戦没者墓地もあります。【本殿】境内の西奥に位置し、東面して建つ。三間社流造、桟瓦葺。正側面に擬宝珠高欄付の縁をまわす。方柱で、直接に桁を受け、妻は豕叉首とする。内部は板敷で、後方に壇を設ける。建ちの高い外観になり、装飾を抑えた清冽な社殿である。【神楽殿・拝殿】本殿の前方に拝殿と神楽殿が続く。神楽殿は一間向拝付の入母屋造で、桁行三間梁間二間、周囲に縁をまわす。拝殿は神楽殿後方に突出する切妻造桁行三間の建物で、いずれも方柱で、板敷。拝殿背後には渡殿をさらに付設する。整備された礼拝空間を構成する。
いおしじんじゃ。名前を知らずに何回か行ってマス。寿太郎ゆかりの地だけでいってました。何時も道路沿いなのに静でユックリ散策出来ます。由緒ある石橋を眺めるのが良いですね。
有り難うございます。先人、故人がしあわせでありますように。『伊東マンショ司祭の墓が魅力です。感動する先人の思い伊東マンショ司祭の墓です。素晴らしい・日本人ではじめて外国を見聞録した偉人。』
廃れた感じに味わいがありました。
2018.2.11 廃れた感じの神社でした。それもまた趣があって良かったように思えます。
飫肥藩伊東家の菩提寺。昔は静かな所だったんだろう。今では国道脇で風情が乏しい。
伊藤家の墓所になっています。
名前 |
五百禩神社 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0987-25-1412 |
住所 |
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評価 |
4.2 |
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日向伊東氏の菩提寺跡。