駐車場近くの秘密の井戸。
東ヌカー(アガリヌカー)の特徴
村裡に存在する一口井では、ヘビが出没するという独特な体験があります。
周囲の環境が自然に溢れ、ヘビの生息地ともなっている魅力的なスポットです。
遊び心あふれる訪問者にとって、井戸とヘビの共存が幻想的な印象を与えます。
ヘビがはびこっている村の井戸(原文)村裡的一口井,有蛇出沒。
ウォーキングで巡る那覇の河川・樋川・井戸・湧水その128【首里末吉町2丁目】2021/04/18①場所(首里末吉町2-76 石段下付近)●末吉町公民館前の坂を上って、突き当たりの末吉西ヌカー手前を右に曲がって、約70m進むと二股に道が別れていて、左(北側)の道を進んで住宅を過ぎてすぐ左に曲がると、北側の道路へ続く小路の途中右側に井戸がある。●この辺りは、西原間切・末吉村(ニシバルマギリ・シーシムラ)と呼ばれていた。②末吉東ヌカー(シーシアガリヌカー)●末吉 中ヌカーから南東方向へ約70m離れた位置で、比高約5.5mの段丘崖下にある。段丘崖下は幅約13mと広いため、その一部を掘り崩して急崖とし、その前面に井戸と踊場を設けている。上位の段丘面からは、幅約1.5~2mの階段が続いている。村井戸(ムラガー)で、名称は集落の東側に位置することに由来すると云う。●井戸の形態地下部の湧泉は幅約0.4m、天井の高さ約0.6m、奥行き約1.5mの規模で、この井戸も内部は石組みである。入口にはコンクリート製の貯水槽があり、屋根で覆われている。洗い場は最大幅約4m、奥行き約7mの広さで、床は石畳、周囲は合方積みの石垣である。洗い場の右手側には拝所が設けられ、香炉が置かれている●構造や洗い場の規模などから、この井戸もかつては豊富な湧水があったようである。この井戸でも湧水が涸れてしまったのは、涵養源となっていた段丘面上の一帯が、道路の開通などの開発によって変化したためと考えられる。那覇市教育委員会(1986)によると、1985年に調査が行われた頃、日湧水量は0.1m3あったと云う。③カニマン(拝所)●この井戸から北側道路へ上がる石段途中左手にカニマンと呼ばれる拝所がある。●金満(かにまん)とは、後の中山王となる察度王(さっと)の義母弟の泰期(たいき・たいち)です。察度の父、奥間大親の出自は、国頭間切奥間村(現 国頭村奥間)と言われています。伝承では奥間の鍛治屋(かんじゃやー)であったとされ、金満(かにまん)と呼ばれた人物で、鍛冶屋の始祖だと伝わっています。そこから鍛冶工のことを金満と呼ぶようになったといいます。●島添大里グスクの西端や浦添市沢岻、読谷村大謝名等に同名の御嶽がある。また、那覇市識名に尚徳王御陵蹟碑(カネマン御墓)と呼ばれる史跡があり、第一尚氏第7代国王、尚徳王のお墓とされている。●かつてこの拝所に近くには神女・祝女(ノロ)が住んでいて、東ヌカー北側の道路沿いに、村屋とノロ殿内(ドウンチ)、南側には中ノロ殿内があった。●25個の香炉と石碑がある。☆天照の宮拝所(あまてらすのみや)☆宇天天の川拝所(うてんあまのかわ)☆五臓母神拝所(ごぞうははしん)☆神七役場拝所(かみななやくば)☆神七役場 火の神(かみななやくば ひぬかん)☆御世子の方拝所(うゆうぬのふぁ)☆御天火の神・国世火の神・龍宮火の神☆御先井戸神☆御先子の方拝所☆御先火の神☆玉城天孫 國王金満郭孟達拝所(かにまんかくもうたつ)金満家第十二世☆天照須佐之男命(あまてらす すさのおのみこと)子孫一族拝所☆東の井戸隣り(あがりのかーとなり)御世神拝所(うゆう)☆御先底神龍宮(うさちすくしん)火の神☆雨乞(あまごい)の拝所☆首里四鎮(しゅりゆちん)子の方拝所☆末吉町四鎮(すえよしちょうゆちん)子の方拝所☆村中軸末吉之殿☆村中軸火の神☆末吉村五穀豊穣井戸拝所☆御天七火の神・御嶽七火の神・龍宮七火の神☆福禄寿神拝所(ふくろくじゅ)☆宇天軸拝所(うてんじゅく)☆末吉村最初の御先火の神☆御天九火の神・御嶽九火の神・龍宮九火の神④末吉町●古くは、シーシ村、獅子村等と呼ばれ、畜産を営む村落で、首里の葬祭に携わる一面も有していた。18世紀頃から伝わる村落独特の獅子舞が伝承されており、琉球国王尚泰の冊封奉祝の宴において舞を披露した記録が残されている。現在でも旧暦8月の十五夜にノロ殿内で奉納の舞を舞う習慣があり、那覇市の無形文化財に指定されている。1954年までは首里市に属し、末吉町と呼ばれた。また、古くはシーシ村と称した。住居表示の首里末吉町は、近年まで3丁目までであったが、真嘉比、古島区画整備事業にて4丁目が新設され現在に至る。 戦前から在郷制限型の自治会が存在し、戦後ポツダム政令第15号が沖縄に適用されなか ったことによって残存した旧村落の字有地・共有財産である末吉公園を管理する必要から、自治会側がメンバーシップを厳しく制限している。●西原間切の西端部に位置し、北は浦添間切の沢岻村・経塚、南は真和志間切の真嘉比村、東は首里及び平良村に接し、村中南部を安謝川が西流する。村の北東部は屋取の大名。浦添から首里に向かう道が通っており、旅の安全を願って謡われていたヤラシイグワイナ(クェーナ)に「平良ふな」と「あだにが」が見える。浦添を経て首里に上る途中の地名として謡われたもの。絵図村帳・琉球国高究帳の真和志間切に「末吉村」とみえ、高究帳によると高頭75石余、うち田49石余・畠26石余。1670年頃までに西原間切に移管。1920(大正9)年西原村から首里区に編入され、末吉町となる。その際大名が分離し、大名町となる。---1880(明治13)年には戸数138、人口669。1903(明治36)年には戸数182(士族13・平民169)・人口881(士族72・平民809)。角川辞典 p182 (省略と抜粋)参照:沖縄島・首里城と周辺地域の古井戸参照:鬢頭虜と行く首里の坂道!歴史まーい参照:ハイホー沖縄散歩金満御嶽金満墓参照:心軽やかに~カニマン御嶽@南城市 あっちこっちにある?参照:グダグタ(β)末吉参照:Wikipedia首里末吉町。
名前 |
東ヌカー(アガリヌカー) |
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ジャンル |
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住所 |
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HP |
https://oki-park.jp/shurijo/shuri-aruki/siseki/2014/03/post-111.html |
評価 |
3.7 |
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