美しい神社、楽しい時間。
登志神社の特徴
美しい神社として、多くの人を魅了するスポットです。
楽しい体験ができる、訪れる価値のある場所です。
西区今津の自然豊かな環境に囲まれた神社です。
美しい神社です、楽しかった。
登志神社(としじんじゃ) Toshi Shrine今津は,古代,登志郷(としのごう)と呼ばれており,港には中国の船が多数寄港していました。古い地名が残る此神社は,登志の港鎮守(みなとちんじゅ)のために祀(まつ)られました。毎年1月15日には,「今津の十一日松囃子(まつばやし)」がこの神社を氏神(うじがみ)として催されます。三味線,太鼓,鐘で囃(はや)しながら「山車(だし)引き歌」を歌い,山笠や山車で町内を練り歩く姿には,博多の山笠やどんたくの原初的な形がみられます。また,9月初旬にこの神社の境内で行われる「今津人形芝居」は,もとは隣村の大原(おおばる)にあった「大原操(あやつ)り人形」の道具一式を明治24年(1891年)に,今津で新たに結成された「恵比寿座(えびすざ)」が譲り受けて始めたものです。昭和45年(1970年)には今津人形芝居少年部が組織され,その伝統が受け継がれています。昭和29年(1954年)に,県の無形民俗文化財に指定されました。平成14年3月西区役所社頭掲示案内ーーーーーーーーーーーーーーーー登志神社鎮座地福岡市西区今津字尾の上一,五七〇番地祭 神豊受姫大神,中筒男命,姫大神境内神社陰若神社 息長帯姫命稲荷神社 倉稲魂神 宇賀竜神 大己貴神志賀神社 表津綿津見神,中津綿津見神,底津綿津見神五十猛神社 五十猛神村社 明治五年十一月三日列格祭儀 正月十一日 九月九日 九月十八日由 緒昔 中国の船が来集していた登志の湊鎮守のために,まつられたものとして,字尾の上にある。人皇五十代桓武天皇の延暦三年伊勢国山田原から奉成遷座と伝えられている社号は登志郷の名を冠している民部省図帳によれば登志湊の神貢云々の事のみにて,朝廷の厚く尊敬在りし事詳で,また筑前国志摩郡に往昔より社領多かったという。天文七年三月二十九日九州探題臼杵安芸守親連の時に社領従前の例に任せ中通六町今津に二町寄附あり其他にも寄進状を伝えている。 神宝として縁起猿楽の仮面五等が存していたが,天保十五年甲辰焼失す。境内掲示由緒ーーーーーーーーーーーーーーーー村社 登志神社今津村字尾の上にあり。登志神社は四所神社と共に昔外国船の来集せし登志の港鎮守のため祭れるものなりと言い伝えたり。祭神は豊受皇大神,中筒男命,姫大神なり。明治五年十一月三日村社に定められ,本村の産神として毎年十月二十八日其例祭を行う。古は朝廷の崇敬厚かりしこと元享二年民部省圖帳に詳なり。されば神領も亦大にして天文年中柑子岳城主臼杵安藝(豊後大友氏の郡代)の状に筑前国志摩郡定直職同四所登志免兩社領之事任前々例可被改之状如件天文七年三月二十九日 親 連 判牧園中務丞殿又臼杵安房守よりの状に筑前志摩郡の今津之内四所登志免両社領中通六町今津二町並燈油免之事任前々之旨無相違可知行之状如件天文八年二月十八日 鑑續判定直中務丞殿然れども是等の領地は豊臣氏の頃に至り悉く没収せられたるが如し。神寳として縁起(元録十五年古野元軌撰)猿楽免笛及假面五等を存せしも天保十五年甲辰焼失す。摂社末社多ありて全村に散在せり。(定直姓は古より神職を務めたる家なり)糸島郡誌ーーーーーーーーーーーーーーーー村社 登志神社 糸島郡今津村大字今津字尾の上祭 神豊受姫大神,中筒男命,姫大神由 緒元享二年民部省圖帳に登志湊神貢云々の事見えて朝廷厚く尊敬在りし事詳なり。此登志湊とあるは則今津の古名ならん,右の民部省圖帳に筑前国志摩郡に往昔より社領等多有之たる哉天文七年三月二十九日九州の探題臼杵安藝守親連の時に社領従前之例に任せ中通に六町今津に二町寄附の事在り又天文八年臼杵安房鑑續より怡土郡井原村の内五町是又従前の通り寄附有之然るに豊臣氏の頃に至り社領の悉く没収と成る明治五年十一月三日村社に定めらる。例祭日 十月二十八日神饌幣帛料供進指定 昭和十二年四月十五日主なる建造物 神殿,渡殿,拝殿境内坪数 五百一坪氏子区域及戸数 糸島郡今津村岡区 百五十戸境内神社 陰若神社 稲荷神社 志賀神社 五十猛神社 庚申社福岡県神社誌 中巻ーーーーーーーーーーーーーーーー延暦三年=784年一の鳥居:大正十年六月 二の鳥居:□(萬?)延元庚申年\u003d1860年狛犬:昭和11年吉日。
| 名前 |
登志神社 |
|---|---|
| ジャンル |
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| HP |
https://www.city.fukuoka.lg.jp/nishiku/c-shinko/charm/nisikunotakara/toshi_jinja.html |
| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
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福岡市西区が設置した看板には次のように記されています。この寺は、筑前怡土・志摩両郡の荘園であった怡土荘の豪族仲原氏の娘の発願で、安元元年(1175年)に、渡宋のためこの地に赴いた栄西(1141~1215年)を招いて創建されました。日本の臨済宗の開祖である栄西は、比叡山で天台の教義を学び、二度の渡宋により臨済禅を伝え帰ったことで有名です。栄西は、二度目の渡宋の前、栄版一切経の渡来を待って本寺に十数年間滞在し、その間に数々の著述を行いました。中でも「誓願寺盂蘭盆縁起」は、栄西直筆の書として国宝に指定されています。この他、本寺には中国の呉越国(907~978年)から分与された「銭弘俶八万四千塔」、元からもたらされた「孔雀文沈金経箱」など、対外交流を裏付けるものが多数伝えられています。これらは、いずれも国の重要文化財に指定されています。平成14年3月。