西新に根付く、頭山満の楠木。
頭山満手植之楠の特徴
頭山満が幼少期に夢見た楠木正成を象徴する見事な楠です。
玄洋社の総帥、頭山満にまつわる史跡がここにあります。
自由民権運動の結社としての玄洋社の重要な歴史を持っています。
頭山満って、西新の出身だったんだ。知らなかった。それにしても大きな楠の木だね。
見事な楠です。
玄洋社総帥 頭山翁が幼少期に楠木正成の様になりたいとの思いで植えたと伝わる楠。関連本を読んで訪れると感慨深いと思います。
頭山 満(とうやま みつる)は1855年筑前国早良郡西新町(現在の西新)の福岡藩士・筒井亀策の三男として生まれ後に福岡の政治団体玄洋社の総帥となります。自らは政治家にも、役人にもなりませんでしたが、後の活動家や政治団体に多くの影響を与えたと言われます。日本に亡命して来た海外の政治家や思想家の支援も大変熱心に行い、その中には孫文や蒋介石もいました。そしてこの楠木は頭山満が植えた樹木なのです。
頭山 満(とうやま みつる)は1855年筑前国早良郡西新町(現在の西新)の福岡藩士・筒井亀策の三男として生まれ後に福岡の政治団体玄洋社の総帥となります。自らは政治家にも、役人にもなりませんでしたが、後の活動家や政治団体に多くの影響を与えたと言われます。日本に亡命して来た海外の政治家や思想家の支援も大変熱心に行い、その中には孫文や蒋介石もいました。そしてこの楠木は頭山満が植えた樹木なのです。
頭山満 とうやまみつる 1855/4~1944/10自由民権運動の結社として玄洋社を創立した一人(玄洋社の名簿の中に、中野正剛、広田弘毅が居ます) 筒井亀策の3男で、頭山家(母方)の養子となりました。 頭山満は、高場乱の「人参畑塾(興志塾)」で学び、明治の初期の混沌とした時代、政府の警戒により投獄され、釈放後は福岡市東区海ノ中道に「開墾社」を設立し、「向浜塾」を開き、 その後『玄洋社』を設立します。幾度か政界入りを熱望されたが、その都度これを固辞して野に在って力を奮った。
| 名前 |
頭山満手植之楠 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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玄洋社の創設者であり国士の頭山先生が幼少の頃、楠木正成公のようになりたいと思い立ち、植えられた楠木とのことです。石碑と説明書きがあります。その斜め後ろには、頭山満翁の甥で娘婿の筒井條之助さんの記念碑があります。この西新の地が福岡市へ編入されることに尽力されたとのことです。石碑の筆は、内閣総理大臣を務めた犬養毅首相からとのことです。