串本で感じるトルコの絆。
トルコ軍艦エルトゥールル号遭難慰霊碑の特徴
映画海難1890に導かれ、トルコの歴史を感じられます。
車イスでも訪れやすい、幅広い舗装された遊歩道があります。
トルコと日本の友好が深まった重要な場所として記憶されています。
日本外交史にも重要な場所です。トルコ(現テュルキエ)海軍船・エルトゥールル号が海難事故。船員約600名のうち、約70名が泳いでこの村までたどり着き、村のその冬の貯蓄を拠出してまで船員を助け、テゥルキエまで送ったことで、日本とトルコの親交が深まり、湾岸戦争の際に戦地から日本国民を脱出させてくれたことにつながりました。第二次世界大戦前に建てられた非常に立派な慰霊碑で、日本語とトルコ語でメッセージが記録され、当時のテュルキエ(トルコ)初代大統領・ケマル・アタテュルクのメッセージも記されています。地元の方々が非常にきれいに清掃されているので、静謐で静かな時間の流れを感じることができる、おすすめのスポットです。
映画海難1890に導かれ、トルコを訪れました。その旅で知らされた、トルコ人の思い、今も130年前に受けた島民の献身的な救援をトルコの小学生は教育現場で学び語り継がれており、親日の由来を改めて知りました。この度、何かの縁で串本、大島を訪れる機会があり、この慰霊碑に来ることができました。この救援は後の1985年3月17日に起きたイラン・イラク戦争の際、48時間後に迫った攻撃通告に、取り残された日本人215名はトルコから駆けつけたトルコ航空救援機2機により、全員がイランを脱出する事ができました。それは、1890年に起こったトルコ軍艦エルトゥールル号の悲劇から始まる、日本とトルコの感謝の絆があったのでした。
トルコ記念館からは、幅の広い舗装された遊歩道で接続されていて、車イスの方でもアクセスしやすいです。
しっかりと残されてます。前々から気になってました。
トルコ記念館は南紀旅行の際に前を通りながら時間の都合でスルーしてしまい、あとになって後悔したものです。以下、Wikipediaより抜粋。>記念館の由来は、オスマン皇帝の特使を乗せて日本に派遣されたエルトゥールル号が、帰国の途にあった1890年(明治23年)、樫野埼灯台近くで座礁したことにある。犠牲者587名という大惨事であったが、地元大島村(現串本町)の人々はトルコ人の遭難者に温かい対応を行ったことが、日本とトルコの友好の始まりとして有名なエピソードになっている。トルコ記念館はこの出来事を記念し、1974年(昭和49年)12月に遭難現場付近の紀伊大島に建設された。2階展望台からはエルトゥールル号が座礁した地点を見ることができる。<この時の日本人の施した善行が100年近い時を経た1985年、イラン・イラク戦争の際の「トルコ航空機・215名の邦人✈️決死の救出劇」として報道され、そして「95年前の恩返し」の美談としても話題になりました。兼々、トルコが親日国な理由は何故だろう❔と思っておりましたが、この事が友好の礎になっていたのですね。これらのエピソードは「恩を仇で返す国」には耳の痛い話。具体的に、どこの国とは言いませんがね(笑)
トルコと日本の友好のきっかけとなった海難事故でした。政治的な背景はさておいても海難に遭われた方々に庶民が力を尽くしたことに素直に感激します。国を越えて人と人が助け合うことができることが大切なのだ感じます。
| 名前 |
トルコ軍艦エルトゥールル号遭難慰霊碑 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
0735-62-0555 |
| HP |
https://www.town.kushimoto.wakayama.jp/kanko/oshima/torucogunkan.html |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
|
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和歌山の串本な座礁したエルトゥールル号を日本人が救助。それをトルコ人はずっと恩に思い、今でも日本人を見ると手を振ってくれたり、挨拶してくる。トルコと日本の友情の証。