白金長者の屋敷跡を散策。
白金長者屋敷の特徴
都心の中に隠れた自然を感じられる史跡です。
白金長者の屋敷跡は歴史を感じられる貴重な場所です。
附属自然教育園内に残る土塁が魅力を引き立てています。
都心の中の自然。
白金の地名の由来となった白金長者の屋敷跡地とされる。別名白金城。自然公園全域が城跡とされる。自然公園内各所に見られる土塁は,白金長者が築いたものとされ,建設目的は,一般に防衛施設とする説と野火止とする説がある様である。これらは歴史的価値が認められ,国の指定史跡となっている。歴史上,「白金」が初めて登場するのは『小田原分限帳』であり,後北条家家臣の太田新六郎康資の所領として記録されている。次に,「白金長者」の名前が史料に初めて登場するのが,『故郷帰の江戸咄』に乗る「長者丸并香貝橋」の物語である。1687年発刊の古書において,「昔の話」として語られているので,少なくとも,江戸前期にはよく知られていた億万長者だったのだろう。ただし,物語内容は,鬼が出たり,龍が出たりのおとぎ話であり,わらしべ長者などと同じ長者伝説型の民話類型と見るべきであり,史実と考えるべきではない。最後に,江戸後期に書かれた『御府内備考』には,白金長者は,室町時代南朝の下級役人であった柳下上総介であったとする話が乗る。柳下は,室町時代 応永年間,南朝が滅んだ後,当地に移住し,周辺域を開発したのだとか。その後,江戸前期の元和年間,その子孫であった柳下重太夫が白金台の名主となったとされる。この話は,江戸後期,幕府の役人が白金台六丁目の名主だった柳下甚右衛門から聞き取ったものとみられる。そもそも,江戸期間中は松平讃岐守下屋敷があり,明治年間中は帝国海軍・陸軍火薬庫があった。このため,後年に土塁は新築された可能性も十分に残るため,土塁跡も,「室町時代からの遺構だ」と断言するのはいささか難しい。まともな発掘調査も行われていない様であり,国の指定史跡としてはかなり根拠薄弱に思われる。
この土地の地名の由来となった白金長者の屋敷があったとされる。以前、この一帯は長者町と呼ばれていたそうです。
白金長者(伝柳下氏)の屋敷、館があったとされる。江戸時代には大名屋敷が建っていた。土塁というのは一目で確認することができるが、これは近代になってからのもの。近世の遺構は少ない。
案内板がある事でかろうじて土塁だというのが分かります。
名前 |
白金長者屋敷 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
3.4 |
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附属自然教育園に屋敷跡があります。館跡や土塁の案内板が立っていて土塁跡は園内の複数箇所に点在しています。