歴史に思いを馳せる、伊予の海賊の地。
藤原純友館跡碑の特徴
瀬戸内海を見渡せる高台に位置する石碑です。
平安時代の海賊藤原純友にまつわる歴史を知れます。
松山市営墓地内にある、比較的新しい建築物です。
伊予の海賊がお住まいに。
お寺の一部の敷地なので、行ってみたら驚くかもしれないです。
自分のお墓があるから。
松山市営の墓地の一角、瀬戸内海を遠望出来る高台に石碑(比較的新しく設置)が建立されています。建物跡等は有りません。
秋月氏の祖は、平安時代に伊予で反乱を起こした藤原純友を討伐した大蔵春実である。この功績により、春実は九州に所領を与えられ、大宰府の官人となって筑前国に土着したと言われている。のちに人吉藩主に養子入りした(人吉藩主の相良家の親戚)元は、重臣だった相良家は、藤原氏の流れをくむ工藤家桓武平氏(相馬家👈平将門を子が当主となった)から妻を迎えるなど権威を増していった(養子や妻を迎え入れる)事は、その養子や妻の実家の権力や援軍も手にする事を意味する。
高台にある明神墓地の隅に石碑が建てられているのみですが、ここに来ると歴史に思いを馳せることが出来ます。
坂東の平将門の乱に呼応するかの様に、日振島で旗揚げした藤原純友。反乱前夜、まだ純友が伊予掾(いよのじょう)であった時代の館の推定値です。ここから眼下の海を見下ろし、何かをつぶやいていた純友が見える様です。
| 名前 |
藤原純友館跡碑 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
3.1 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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藤原純友は、西暦900年頃、瀬戸内海の海賊討伐を朝廷から命じられ、伊予に赴任しましたが、逆に海賊の頭領となり、宇和島の日振島を根城に、叛乱を起こし、淡路、讃岐の国府を始め、畿内から九州・大宰府まで襲撃、略奪を行いました。けれど、博多湾の戦いで敗れ、伊予へ逃れたところを、伊予国警固使の橘遠保(たちばなのとおやす)に討たれた、あるいは捕まり獄中で没した等の様々な説が有ります。本拠地は日振島なので、この館跡は海賊の当主になる前の伊予掾(朝廷から命じられた国司の補佐の役職)時代の館でしょうか?案内版には純友はこの館で亡くなったと有りますので、捕らわれた後、ここに幽閉されていたのでしょうか?あるいは、当時はこの当りまで海であったと推測されることより、海賊時代の館であったのかは不明です。こんな所に?と感じさせられる佇まいです。