メレヨン島防禦配備要図を見に行こう!
メレヨン島戰歿者慰靈碑の特徴
メレヨン島戦没者慰霊碑の後ろには、重要な歴史的資料が揃っています。
全戦没者名碑や江りい丸慰霊碑があり、深い歴史を感じられます。
防禦配備要図が設置されており、戦争の痕跡を学ぶことができます。
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名前 |
メレヨン島戰歿者慰靈碑 |
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ジャンル |
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電話番号 |
084-922-1280 |
住所 |
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HP | |
評価 |
4.0 |
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慰靈碑の後側にはメレヨン島防禦配備要図・全戦没者名碑・江りい丸慰靈碑が設置されている。石碑の裏側 碑文を書写します。第ニ次世界大戦の戦局が急に告げていた昭和十九年ニ月数度に亘り上陸した海軍将兵及び軍属三千五百名と同年四月十二日上陸した。陸軍将兵三千三百名とより成る西カロリン群島メレヨン島守備部隊は寧日ない米軍機の爆撃に曝されながら日夜防衛築城訓練に挺身したが戦況の悪化に伴い食料医薬品弾薬の補給は意に任せず、同年七月サイパン島の陥落に続いてグアム島などの守備部隊が玉碎するに及び補給は全く絶え孤立無援となった。現地自活のための懸命な農耕と漁撈にも拘らずサンゴ礁の土壌に農作に適せず不備な漁具による漁獲は少なく食糧は日を逐うて窮乏し一時は主食一日一人百グラムの給養となって生命保持の限界をはるかに割り全島に鼠トカゲ類の影を見ない状態となった剩え熱病アメーバー赤痢等の風土病が蔓延し医薬品は欠乏して斃れるものが続出した。総員六千八百名のうち爆撃による戦死者を含め実に五千二百名を失うに至った。私達は終戦最初の復員船回航のおかげで痩せ細った身を辛うじて、この島から生還し得たが、その中の一部は上陸直後、別府病院で亡くなった。この島での一年有半の体験は私達の脳裡深く刻み込まれ終生忘れることは出来ない。終戦から二十年を経た今も尚、私達は椰子の根元に埋葬した多くの戦友達の慟哭を聞く、そして断腸の想を遠く南海の孤島に馳せ遺族の上に思を致せば万感胸に迫って慰問の辞を知らない。茲に生還者一同相寄ってメレヨン会を結成し亡き戦友の英魂を弔慰するため相扶けて、陸軍部隊の主力であった南洋第五支隊編成の地 福山市を選び、この碑を建つ昭和四十一年四月十日全国メレヨン会員一同江りい丸慰霊碑南洋第五支隊の乗船江りい丸がメレヨン島へ赴くため豊後水道を南進中、昭和十九年一月十一日十二時四十七分 島の浦灯台沖に於て敵の魚雷攻撃をうけて撃沈せられ戦死せる、将兵百九十八柱の英霊を本慰霊碑に合祀しあり。