豊臣時代の石垣を感じる。
豊臣期大坂城の復元石垣(ドーンセンター前)の特徴
豊臣期大坂城の石垣は歴史を感じる魅力的な遺構です。
復元展示された三の丸北端の石垣、織豊期の魅力が満載です。
アクセスも良好で、天満橋駅から徒歩7分で訪れられます。
やっぱり徳川より豊臣の城や遺構の方がワクワクします!!もっと色んな場所で色んな豊臣期に関するものを見たいです!!
◽アクセス①谷町線/天満橋駅/北①:徒歩7分②京阪本線/天満橋駅/東⑭:徒歩7分◽「大坂城三の丸北端石垣」 概要▪️大阪ドーンセンター北側に豊臣期の大坂城三の丸の石垣の一部を移築し、復元展示されています。▪この石垣は、1989(平成元)年当該センター建設に伴う発掘調査により存在が確認されたもので(地下2m、東西21m)、豊臣期の大坂城の面影を今に伝えています。▪️三の丸北端にあたる石垣とされています。「大坂冬の陣」停戦後、講和条件として徳川方により破却され、約400年余り地中深く埋もれていた遺構です。◽追手門学院小学校「豊臣大坂城・京橋口馬出し曲輪跡」▪「豊臣大坂城ゆかりの地」顕彰板▪グランド側に 「石垣遺構」 復元展示◽日本経済新聞大阪本社遺構「寝屋川護岸石垣」▪日経大阪本社の東北隅に移築展示されている石垣遺構があります。▪1975(昭和50)年、日本経済新聞・大阪本社建設時に徳川時代の石垣が発見され現在の地に復元されました。この石垣は、日経新聞社の社屋建設に伴い発見された「寝屋川護岸石垣」の一部を移築したものです。▪謂わば、寝屋川護岸石垣を大坂城北端に位置する石垣に見立てた大坂城の 「みなし石垣」とでも言えるでしょうか。
わずかな部分を移築復元した努力はわかるが、徳川が作った現石垣に比べると、あまりに粗末な野面積みの石垣。建築の時代にズレがあるので仕方ないが、この程度ならわざわざ展示する必要はあるのか、と正直思う。ただこれで豊臣大坂城の一部が分かった。自分は徳川大坂城よりも、絵図に描かれている情緒があり芸術性のある豊臣大坂城の方を、愛おしく、また好ましく思う。
移築復元ながらも、織豊期の石垣感満載です。豊臣秀吉の大坂城を感じられる数少ない場所です。
豊臣秀吉は晩年の1598年、大手口をより強固にする為三の丸をつくっています。現在の大阪城🏯の西側中堀の外側、一帯の広大場所になります。豊臣大阪城🏯の三ノ丸の遺構が発見されています。全ての石垣は、野面積みになります。2003年12月大阪府警本部建設の時と、その後2015年大阪重粒子線センターの建設のときも発見されています。大阪府警本部の北隣りありますが、二つの建物物時下には、「障子堀」が発見されてます。今は見られません。障子掘りは、秀吉最後の天下取りの小田原北条氏総攻撃のときに、小田原城の支城である静岡県にある山中城の興亡のときに山中城の堀に障子掘が使われていました。障子のサンのような四角に小さく区切られた堀のことなのですが、これに秀吉は攻略に手間取った堀だったそうです。その記憶で小田原城🏯を落とし天下取りを実現した後に大阪城🏯の三の丸を守る堀として障子掘をほっています。この掘は、粘土層の堀は幅25メートル、深さ6メートル、斜度40度あります。その堀の中に頭蓋骨💀🦴やむしろに巻かれた女性の人骨が発見されてます。大阪府警本部をさらに北に進み、大手前の交差点を右折すると大手門学院附属小学校の東端に三の丸遺構の石垣がつまれてます。地下にあったものを地上に積み直した石垣遺構です。その小学校のなかにあり、みることが出来ない石垣が、小学校東館メデイアラボにガラス越しにみえるように、石垣ギャラリーがつくられています。また小学校の裏側を左折するとドーンセンター「大阪府青少年参画センターなどが入っている府の建物」の北側にも小学校から150メートル続いて石垣が平成元年建設時に発見され、地上に積み直され公開されてます。これは三ノ丸の北端の石垣といわれてます。1614年大阪冬の陣の時に埋められてます。太融寺にある秀吉の奥方淀の方のお墓がある寺には、この小学校で発見された石垣の1つが置いてあります。JR大阪駅から地下鉄谷町線東梅田駅から谷町四丁目駅🚉下車し、1-B号出口から降り左折突き当たりが大阪城🏯があります。その手前に大阪府警本部があり、また左折大手門学院や大手前交差点を右折し掘回りにドーンセンターなどが連なってます。
客待ちのタクシー運転手による石垣への立ち小便が、長年問題になっていました。2016年頃にようやく近隣の客待ちが排除されましたが、対策が遅すぎます。
名前 |
豊臣期大坂城の復元石垣(ドーンセンター前) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
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豊臣時代の大坂城の石垣。但し、石垣検出時の状態を保ったまま移転・復元したものだそうです。石垣マニアの方なら必見の場所ですよ🤗