護国神社参拝と歴史探索。
隊中様・藤山佐熊の墓の特徴
明治3年の歴史を感じる藤山佐熊のお墓がある史跡です。
林道の終点から続く道を進むと、静かな環境が広がります。
脱隊騒動の舞台を訪れることで、深い歴史に触れることができます。
今年の正月に、萩の護国神社に参拝しました。ここにも招魂碑がたくさんあり、奇兵隊振武隊などの石碑もありました。奇兵隊のことをいろいろと調べているうちに、隊中様のことを知り、お参りすることにしました。林さんのクチコミがとても参考になりました。途中のため池の空き地に車を置いて、徒歩で隊中様まで行きました。宮野にある隊中様や、大内の柊にある脱退諸氏招魂碑もお参りしたいと思います。
林道の終点地点をぬけた先も道が続いています。車や普通のバイクではそこから先に行くのは難しいかなと思われます。(石が大きく、滑りやすかったりエンジンに飛び石したり傷つく可能性があるため)オフロードになれている方やオフロードバイクならギリギリ行けると思われます(中級者以上)そして木製の橋があるので、そこからは徒歩5分程度でお墓に到着します。
明治3年(1870年)2月9日、脱隊騒動で平川の鎧ヶ垰中腹で戦死した藤山佐熊(すけくま)のお墓です。「藤山佐熊源正道神霊」と刻まれています。藤山佐熊は、阿東嘉年の農家に生まれました。諸隊の一つである振武隊(しんぶたい)に入隊して戊辰戦争に出陣しました。しかしながら、明治になり諸隊の人数を減らす藩の方針により脱隊を余儀なくされました。佐熊は脱隊側の1人となり討伐軍に鎮圧されました。佐熊は実家が薬草も栽培する農家だったため、医学の心得があり諸隊の軍医でもありました。平川に滞在した時には、村人の病気を親切に診てあげ尊敬されました。そのため、村人は鎧ヶ垰で戦死した彼の遺体を手厚く葬りお墓を立てて供養し、敬意をこめて「隊中様」と呼ぶようになりました。「お墓にお参りすると病気が治る」との俗信が広まり、一時は茶店が立ち並ぶほどにぎわいました。県は、人々が反乱軍を信仰の対象とするのを危ぶみ参拝禁止令を出しました。今も地元の方により慰霊祭が行われています。お墓のある場所は相当な山の中ですが、山道はとてもよく整備してあります。鎧ヶ垰を越えるこの峠道は、大村益次郎が鋳銭司から山口に通った道でもあります。鎧ヶ垰(よろいがたお)。永禄12年(1569年)大内輝弘が九州の大友の兵を率いて山口の毛利勢を攻める際、この峠道を通りました。その時、輝弘がここで鎧を着けたので「鎧ヶ垰」と言うようなったという伝説があります。
名前 |
隊中様・藤山佐熊の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.3 |
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1868慶応4年明治元年、M2年戊辰戦争函館戦争、その後、明治政府は軍隊(常備軍)をつくる。維新戦争に参加した隊員2000人が山口県庁へ向け反乱政府は下関から軍隊を出動させ、戊辰戦争に参加した医師藤山佐熊(すけくま)M3