神聖なる多祁御奈刀弥神社で、諏訪の元社を感じる旅。
多祁御奈刀弥神社の特徴
多祁御奈刀弥神社は諏訪大社の元社として知られています。
建御名方命と八坂刀売命が祀られる重要な神社です。
龍脈が通る場所に位置し、深い歴史を感じられます。
徳島県に佇む「多祁御奈刀弥(たけみなとみ)」は、神聖な雰囲気と厳かな美しさが融合した、訪れる者を魅了する神社です。歴史と伝説に包まれた境内は、神秘的で穏やかな空気に満ちており、参拝者は日常の喧騒を離れて心静かに祈りを捧げることができます。荘厳な社殿と自然との調和が、訪れる人々に安らぎと癒しをもたらすでしょう。「多祁御奈刀弥(たけみなとみ)神社」で、古来の神聖な雰囲気と出会い、心身のリフレッシュを求める旅に出かけてみてください。
多祁御奈刀弥神社(たけみなとみじんじゃ)は、徳島県名西郡石井町に鎮座する神社である。【祭神】建御名方命八坂刀売命創建年は不詳。現在の社殿は1720年(享保5年)に建築された。徳島藩主である蜂須賀家からの尊崇が高く、御例祭の際には参拝・代参していた。1627年(寛永4年)には蜂須賀光隆が祈願し奇瑞を著した。また、蜂須賀氏が参拝の際は、鮎喰川の出水に遮られることがあるため、徳島城から近い諏訪神社に分霊したとも伝わる。【住所】徳島県名西郡石井町浦庄字諏訪213-1
徳島県名西郡石井町に鎮座する多祁御奈刀彌神社。歴史のある雰囲気を感じさせらる神社です。石井町の親戚の家が近くにあり以前から気になっていたので参拝させて頂きました。ありがとうございました。
歴史ある重要な神社目の前に駐車スペース有り(もちろん無料)滞在時間は短かったけれども、ここに呼ばれました。感謝致します。
多祁御奈刀弥神社たけみなとみじんじゃ徳島県名西郡石井町浦庄諏訪213−1祭神建御名方命八坂刀売命建御名方命は大国主命の子で天孫族の国譲りを拒否、追われて信濃国の諏訪神社に祭祀されている地主神を「追い出し」そこの祭神となった天孫族との戦いの開始がこの地で最後は諏訪であったという。
諏訪大社の元社と伝えられております。
諏訪の元宮と言われるこの神社と信州の諏訪大社とは日本列島を縦断する「巨大な龍脈」として知られている「中央構造線」で繋がっています。境内の巨大な御神木の傍らには「武甕槌大神」と「力くらべ」をしたという巨石が置いてありました。
多祁御奈刀弥神社 諏訪大社元社 宝亀10年信濃国移転由緒当社は石井町浦庄字諏訪に鎮座し、建御名方命・八坂刀売命をお祀りしている。延喜式内小社。歴代藩主蜂須賀候の尊崇極めて篤く、毎年当社の御例祭には参拝又は代参せられし趣にて、殊に寛永年中第四世蜂須賀光隆君疱瘡にかかられし際当社に御祈願あり奇瑞著し。又参拝道中鮎喰川の出水に遮られる事のあるため、現在の佐古町諏訪神社に分霊せしものと伝えられる。現在の社殿は享保五年(1720)の建築と言われる。「阿波志」には、「建御名方命の御母は阿波の高志の沼河比売(ぬまかわひめ)・天水塞比売(あまのみなせきひめ)なりと云へり、名西郡高志の郷、現今高原村の塞村・堰村とも書きたる関傍示に天水塞比売を祀れる旧跡あり。」和名類聚抄 阿波国にもこの地が高志郷であったことが記されているそうです。
多祁御奈刀弥神社 諏訪大社元社 宝亀10年信濃国移転由緒 当社は石井町浦庄字諏訪に鎮座し、建御名方命・八坂刀売命をお祀りしている。 延喜式内小社。歴代藩主蜂須賀候の尊崇極めて篤く、毎年当社の御例祭には参拝又は代参せられし趣にて、殊に寛永年中第四世蜂須賀光隆君疱瘡にかかられし際当社に御祈願あり奇瑞著し。又参拝道中鮎喰川の出水に遮られる事のあるため、現在の佐古町諏訪神社に分霊せしものと伝えられる。現在の社殿は享保五年(1720)の建築と言われる。「阿波志」には、「建御名方命の御母は阿波の高志の沼河比売(ぬまかわひめ)・天水塞比売(あまのみなせきひめ)なりと云へり、名西郡高志の郷、現今高原村の塞村・堰村とも書きたる関傍示に天水塞比売を祀れる旧跡あり。」和名類聚抄 阿波国にもこの地が高志郷であったことが記されているそうです。
| 名前 |
多祁御奈刀弥神社 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| HP | |
| 評価 |
4.4 |
| 住所 |
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諏訪大社四社巡りの後、元諏訪と呼ばれる神社があるとの事を聞きつけ訪問した。延喜式の神名帳にその名があり、宝亀10年(779年)に阿波から長野県諏訪市に諏訪大社が移遷されたとか。御祭神は建御名方神・八坂刀売神で、国譲りの大国主神の御子神にあたる。出雲から阿波へ至る道筋はみえないが、欠史八代に流浪の戦いが起こり、阿波を経て諏訪湖の畔に行き着いたのでは。多祁御奈刀弥神社はのどかな田園にある小さな社であった。神社の前に駐車場は3台ほどのスペースがあり、社務所らしき建物に人は居らず、訪ねてくる人はいない。境内に入ると清らかな空気に背筋がピンとなるが、妙に心が落ち着く。江戸時代に洪水でお詣りが滞ることが度々なので、当社を分霊し徳島の町に諏訪神社として移したそうで、それ以降は神社の規模が縮小したと思われる。諏訪神社は戦いの神様でなので、武家は特に信仰を厚くした。社から2、300メートル下手には、参道跨いだ白い鳥居が立っているが、周りは民家はなく、田んぼしかない。参道の距離を考えると昔はもっと賑わいがあったのではないかと推し量れる。境内には、諏訪大社下宮春宮の門前にあった力石が同じようにあった。また、地主神を祀ったと思われる五角柱の石塔があり、五穀豊穣を祈願した社日塔だと思われる。ここが元諏訪かどうかの真偽は定かでないか、八坂刀売神は忌部氏の系譜であり、当社は阿波忌部氏のお膝元にある。何とも不思議な多祁御奈刀弥神社であった。