心洗われる忌部神社の神秘。
忌部神社の特徴
NHKのゆく年くる年の舞台にもなった神社です。
皇室に献上されるあらたえの麻布が織られています。
行くと心が洗われる、静かな山あいの神聖な場所です。
忌部山にある、その名も忌部神社です。阿波の忌部氏が大嘗祭に木綿や麻布などを朝廷に貢納するようになったのが由来です。
山川に行った時にまわってみました。綺麗に整備された由緒ある神社の風格‼️
1) 忌部の神は様々な神の名前があるが、唯一の御祭神は誰なのか?2) 忌部とはどういう意味があるのか?3) アラタエは理解出来るが、皇室との関係はなにか?4) 忌部の本家は、いったい、どこなのか?5) どのような目的や役目があり忌部は出来たのか?6) 忌部の範囲は、何処から何処までか?7) いつの時代から、忌部は出来たのか?8) 天照大神系列と素戔嗚系列の神社が混在するが、これを説明出来るのか?9) 忌部神社の争いは、原因は何か?山川町と貞光町の昔からの争いにより、神社本庁は二軒屋の勢見山に持っていかれた原因は何か?10) 三木家は単なる、アラタエ製造場所なのか、意味があるはず?11) 東宮御所神社と春宮神社の氏子の争いは何を意味するのか、どうせ古代史勉強するなら、ここまで追求すべきだろう。徳島 神の絆会。
下からの参道から鳥居と石段があり、その上が本殿です。階段ダッシュ42秒お社は新しいですが、境内に安永年間の狛犬が残っています。本殿内には鹿服の織機や籠が保管されています。
令和初の大晦日番組、NHKの恒例番組「ゆく年くる年」の舞台となる神社です。当日の午前中に訪れましたが、撮影車両や数々の照明器具が既にスタンバイされており、 夜間のライトアップされた本殿は更に神々しく厳かな雰囲気に包まれそうです。日中の本殿も紅白の美しい塗装が映え、金色の扁額が大変美しく、本殿の装飾との調和が見事でした。神社境内は山を少々上がった所にあり、快晴の日には回りの街並みが綺麗に見渡せそうです。目的地までは国道192号線を看板に従って、南側へ進む事となります。但し道路の幅が狭く、途中には踏切もありますので安全運転への配慮が必要です。途中、道路の分岐がありますが、小さな道標が出ていましたので、少々分かりにくいかも知れませんが、それに沿って進むと到着します。目的地付近には鳥居と石階段が現れます。参道は徒歩により上がる事となりますが、本殿まで距離にしておおよそ70m前後です。石階段は割と急で、階段の一段あたりの高さもあり、足場も岩を削られた石で造られている為、決して平坦ではなく、転倒の危険もありますので、より一層慎重にお進みください。参道をお進みになる際の車は、駐車場が無い為、付近の路肩(左側)へ駐車するよう、案内が出ていました。尚、車でも本殿へ向かう事が可能で、参道付近より800mとの案内が出ていました。いずれにせよ、付近は細い山道となり、特に夜間は見通しも悪くなりますので、更なる注意と安全面の配慮が求められそうです。
話には 聞いていたのですが 初めて 参拝に いかせていただきました 静かな 山あいで すーと 心が 洗われるようでした 裏山には お聖天さん 古墳山など 色々な 神様が鎮座されてました。
少し山を上がった静かな神聖な場所だった。管理人みたいな方が居て、色んな事を説明してくれて勉強になりました☺️
見張らしもよく、素晴らしいです。
皇室に献上される、あらたえの麻布がここで織られるそうです。
| 名前 |
忌部神社 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| HP | |
| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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忌部神社(いんべじんじゃ)。徳島県吉野川市山川町忌部山。式内社(名神大)論社、旧村社(一時国幣中社)。別名は山崎忌部神社(やまさきいんべじんじゃ)。主祭神:天日鷲翔矢尊。資料によると、『古語拾遺』の造祭祀具斎部の段に、天太玉命の孫神である天富命が、穀の木や麻を植えるのに適した地を求め、日鷲命の孫を率いて阿波国に至り、定住した阿波の忌部氏が大嘗祭に木綿や麻布などを貢納するようになったと記すが、以後も大嘗祭には同氏の織った荒妙御衣(あらたえのみそ)を献上するのが常であった。また、当神社後方の「黒岩」と呼ぶ山腹に6世紀後半の築造と見られる5基の円墳からなる忌部山古墳群があり、これは6世紀前後に忽然と現れたもので、当地に移住してきた氏族集団があったのではないかと指摘されている。社伝によれば、神武天皇2年2月25日に、阿波の忌部氏が祖神である天日鷲命を祀ったのに始まり、もとは上述「黒岩」に鎮座していたと伝える。古来から氏神として阿波忌部氏から、また大同元年(806年)には封戸20戸が充てられていた(『新抄格勅符抄』)ので、朝廷からも尊崇されたたようであるが、詳しいことは不明である。明治3年(1870年)村社に列したが、上述のように近世以降所在不明とされたために、翌4年に「所在地不明」のまま国幣中社に列格した式内忌部神社が、国学者小杉榲邨の考証によって当神社に論定されたため、翌5年に国幣中社へ昇格した。しかし、式内忌部神社を主張していた美馬郡西端山(現 つるぎ町貞光)の御所神社からの反論があり、同7年(1874年)に改めて当神社を比定するという太政官布告が出されたものの、その後も激しい論争が続いたため、同14年(1881年)に御所神社を式内忌部神社に変更し、当神社は村社に戻ることとなった。ちなみに、御所神社比定に対し、今度は山崎側が反発したため、太政官による妥協策として徳島市内に新たに創祀されることとなったのが、徳島市二軒屋町の現忌部神社(式内社(名神大)の後継社で、旧社格は国幣中社である)。とあります。