街中の隠れた道真神社。
中野天満神社の特徴
菅原道真公を祭る由緒ある神社です。
京都北野天満宮の分霊を勧請した由来があります。
朝早くからの御朱印にも丁寧な対応をしています。
写真を撮り忘れた。痛恨のミス!一瞬、新興宗教の建造物にみえ、神社とは思えなかった。コンクリートなのか、モルタルで昭和ごろに立て直しか、移設、合祀された神社でなかろうか。由緒書きでは、菅原道真にまつわる神社とあったが、社は海に向かって建てられており、海に向かい真っすぐ道がのびている。参道か・・。ならば、もともとは海の竜神をお迎えして、漁の安全祈願や、豊漁を願ったんじゃないかと推測する。日本の神社の神様は、ニーズに応じて変更、追加したりしてるから、由緒書きがすべてでないと思っている。筆塚あり。
コンクリートの二階部分にある神社です。由緒はありますが、新しい感じがします。
街中の神社です。初めて行きました。願い事沢山書いてました。
珍しい雰囲気の小さな神社♪学問の神様菅原道真が祀られています(*^^*)今年初の梅の花が見れて嬉しい~♪♪ん?猫が祀られている!?ゆっくり近づいてみると…なんと!本物の猫ちゃんが日向ぼっこをしてました(*^.^*)朝からほっこり気分♪(2022/2)
こちらでも誤った認識で書かれているクチコミがありましたので僭越ながら訂正しておきます。天正10年10月に長曾我部元親は阿波から讃岐に入りましたが十河城を囲んでいます。つまりは元親はこちらには来ていないのです。天正10年7月に香西を攻略したのは西讃の香川氏を中心とした西衆です。この時は本陣を国分寺に構えており、こちらの高松市街地方面は戦場となっていないと考えられます。こちらの方面から攻めた勢力は三好の軍勢となります。このように三好や他勢力の可能性をすべてスルーしてなんでもかんでも長曾我部の責任としてしまっているのが現在の香川県の歴史です。江戸時代の讃岐の郷土史家の中山城山が長曾我部は冤罪であると語っています。中山先生よりも情報が手に入りやすい現在です。史実に真摯に向き合いたいと考えます。
御祭神 菅原道真公初めは中ノ村(今の稲荷神社社地)にあったが京都北野天満宮の分霊を勧請したと云われる。現在の地は戦国時代には香西氏の家臣雑賀勘兵衛の城(館)であり土佐の長曽我部元親軍の讃岐侵攻の時に焼失し空地に成っていたと思われます。高松大空襲にあい区画整理のためか遺構らしきものありません。寛永十五年(1638年)四代藩主生駒高俊公が、今の地に移転しました。生駒氏に代わり初代高松藩主松平頼重公は寛文十二年(1672年)九月に御祭神菅公自筆の画像を寄進し後には、祭殿十石を寄せ天台宗鶴林寺を当社の別当としました。元禄十四年(1701年)には二代藩主頼常公が境内に弓場を造り、武道を奨励した。三代藩主頼豊は、祭田を百石に増やし社号を中野天満宮と改めた。明治維新後に今の社号に変えました。一般には華下天満神社を古天神と云い、当社を大天神と呼びました。天神前の町名は、この社によったものであります。大正五年(1916年)には郷社に列格しました。昭和二十年七月四日にアメリカ軍B-29の無差別絨毯爆撃で全て焼失しました。戦後、社地を縮小し有志により昭和四十四年(1969年)に現在の現代的な鉄筋コンクリート製の社に再建致しました。拝殿は二階にあり綺麗に掃き清められており気持ち良くお参り出来ました。
菅原道真に、入試合格祈願をしました。駐車場がないので、近くのコインパーキングに停める必要があります。
昔は駐車場が小学校の避難場所みたいな所になっていました。待ち合わせにも使ってましたねー懐かしい。夜に通ると提灯がついててなんとも和風な感じがします。
駐車場がないのかな?
| 名前 |
中野天満神社 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
087-831-3009 |
| HP |
https://kagawakenjinjacho.or.jp/shrine/%E4%B8%AD%E9%87%8E%E5%A4%A9%E6%BA%80%E7%A5%9E%E7%A4%BE/ |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
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昭和44年建造 隠れたモダン建築新興宗教ですら神社建築のお決まりをある程度守るのに、ここまで天満宮のお約束を無視したモダン建築は素晴らしいの一言 匹敵するのは太宰府天満宮の仮宮、福岡市の鳥飼八幡宮くらいですかね。