歴史の息吹感じる赤沢城。
赤沢城跡(塩崎新城)の特徴
赤沢城は応永10年に築城された歴史的な名所です。
塩崎新城としても知られ、多くの戦いの舞台となった場所です。
爽やかな雰囲気に包まれた歴史散策に最適なスポットです。
塩崎城と同じく小笠原氏の一族赤沢修理大夫が居城としていたとされ、応永7年(1400)の大塔合戦で敗れた小笠原勢が逃げ込み、3年後には室町幕府が派遣した軍勢に抗う村上氏を盟主とする国人衆が赤沢城に立て籠もっている。天文22年(1553)には主君の赤沢氏を追いやって城主となっていた桑原氏が武田氏に降り、川中島の戦いでは武田方の拠点として使用されている。長野自動車道に沿うように続く道はトンネル入口付近でヘアピンカーブのように蛇行するが、その蛇行したあたりに越将軍塚と呼ばれる古墳への入口があるのでそこから登った。他にも鉄塔保守用の道があり城跡へ行けるようだった。登りはほとんど緩い傾斜で古墳とは反対方向へ分かれる道を行くと堀切が現れた。鉄塔保守で使われたためか堀切は半ば埋まりつつある。笹薮に覆われた二の郭を通り抜けると土塁が見られ奥にはまた堀切がある。主郭の大部分はやはり笹薮となり斜面に崩れた石積の残骸が見受けられる。北へ伸びる尾根上にも郭が並ぶが藪化が進んでいる。
雰囲気が爽やかな場所でした。
| 名前 |
赤沢城跡(塩崎新城) |
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| ジャンル |
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| 評価 |
3.3 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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赤沢城(あかざわじょう)別名「塩崎新城(しおざきしんじょう)築城時期の詳細は不明ですが応永10年(1403年)ごろに篠ノ井塩崎の土豪「赤沢氏」もしくは「塩崎氏」が築いたとされています。室町時代には国人一揆の拠点として使われ、村上満信らの「信濃国人一揆党」が、幕府(足利義満)と対立した。赤沢城に立てこもって戦ったが、最終的に幕府軍に攻め落とされたという記録がある。※これが赤沢城における最初の大きな戦いの痕跡戦国時代(1500年代)になると周辺地域は川中島をめぐる抗争の真っ只中であった。天文22年(1553年)ごろ、この地域を治めていた「塩崎氏」が武田信玄に従属。赤沢城も川中島の前線基地のひとつとして、武田軍に利用される。近くの塩崎城(約1km北)と連携して、北信濃の支配を強化した。廃城時期(推定)は川中島の戦いが終息(1570年代)し、信玄死後の勢力変動で役目を終えたと考えられる。明確な記録はないが、16世紀末頃には廃城状態になっていた可能性が高い。主郭は山頂にあり、南端に土塁、南側面には石垣が確認できますが、規模は小さいです。北側には広い二郭があり、尾根の先端には小さな祠が祀られています。主郭の南背後は多重の堀切と竪堀群によって遮断されています。戦国時代の歴史を感じることができる貴重な史跡です。周辺には塩崎城や越将軍塚古墳などの歴史的スポットもありますので、併せて訪れてみてはいかがでしょうか。