雪蹊寺裏山の信親公墓。
長宗我部信親公墓の特徴
長宗我部信親公墓はいつ訪れてもきれいに掃除されています。
整然とした景観が保たれているため、落ち着いた訪問が叶います。
歴史を感じながら静かな時間を過ごすことができます。
雪蹊寺の裏手に信親公の墓がありました。戸次川の戦いで命を落としていなければ四国の雄のあり方も違っていたのかなと思いました。
雪蹊寺右奥の方にあります。信親は長宗我部元親の長男で、戸次川の戦で討死したそうです。元は浦戸のお寺にありましたが、長宗我部滅亡を機に今の雪蹊寺に移されたそうです。
きれいに掃除されてます。
長曽我部さんのお墓です。長曽我部ファンならば、一度は訪れたい場所です。夏場以外にオススメなのが、この場所から北東の位置にある、長浜城跡です。夏場はマムシなどがおりますのでご注意くださいませ。
| 名前 |
長宗我部信親公墓 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
|
周辺のオススメ
この長宗我部信親のお墓がある場所は、四国八十八ヶ所霊場第三十三番札所の『雪蹊寺』の裏山奥にあります。長宗我部信親は父親の元親に溺愛されていたのか?長宗我部元親が嫡男の信親を溺愛していたのは、事実です。元親には四男四女がいましたが、中でも信親は幼少の頃から聡明で元親は彼を跡取りとして、非常に大切に育てました。遠方から、学者や武芸の師を招き英才教育を施したとされています。詳細元親は信親を跡取りにして、学問や武芸を身につけさせるために、様々な分野の師を招き熱心に教育しました。⦿信親の『信』信親の『信』の字は、友好関係にあった織田信長から、偏諱(へんき)として与えられたもので元親の信長の敬意と信親への期待が込められていました。⦿信親の早世戸次川の戦いで信親が若くして亡くなったことは、元親にとって大きな悲しみとなり、その後の元親の行動や人格に大きな影響を与えたと歴史書に記されています。⦿元親のその後信親の死後、元親は、四男の盛親を溺愛するようになり、跡取りとして育てましたが、関ヶ原の戦いで盛親は土佐を没収されることになります。信親の死は、長宗我部家にとって大きな転換期となり、その後の盛親の運命にも大きな影響を与えたと言えるでしょう。⦿長宗我部信親の性格と評判⦿武勇信親は四尺三寸の大長刀を操り、戸次川の戦いでは、退却を促す家臣の言葉を退け、8人の敵を斬り伏せ、さらに、大刀を振るい、6人を斬り伏せたという逸話があります。⦿猪突猛進その一方で、信親は猪突猛進な面もあったとされ、それが戸次川の戦いで死を招いたと言われています。⦿若くしての死戸次川の戦いで信親は22歳という若さで討ち死にしました。評判信親の武勇は他の武将たちも高く評価されていたと考えられます。しかし、その若さや猪突猛進な面が一部では、危惧されていた可能性もあります。ちなみに長宗我部信親は、元親の嫡男であり、将来を嘱望された武将でした。