月山富田城の英雄、尼子経久像。
尼子経久像の特徴
尼子経久の銅像は月山富田城の対岸、飯梨川の横にあります。
三日月公園内で尼子経久公の像から城跡が眺められ、歴史を感じるスポットです。
大河ドラマ毛利元就で演じられた尼子経久は、島根県の英雄として名を馳せています。
めちゃめちゃカッコいいです!!近くに駐車場もあるので近くに来た時には寄ってもらいたいスポットです!
月山富田城の対岸にある飯梨川の横に尼子経久の銅像がありました。超かっけーわ。月山富田城と飯梨川の間にある橋が新宮橋って名前やった。新宮党の尼子国久って尼子経久の弟やったよな。城のすぐ近くに住んでた直属の部下で新宮党って名前やったんやろか?知らんけど。
尼子経久の銅像かっこいい。謀ごと多きは勝ち少なきは負ける戦国時代を生きた名将皆さんも是非行ってみてください。
自身が君臨した月山富田城、その麓に立派な銅像として建立されています。公園からは月山富田城が見渡せ、経久公も当時、本当にこのあたりを馬に乗って疾駆されたことでしょう。経久公亡きのち、中国地方の覇者となった毛利元就公も、経久公には敬意を払い、尊敬し続けたと聞きます。今は麓の三日月公園で、山陰地方、出雲国、広瀬の町の平和を見守っています。
三日月公園に建つ北条早雲と並ぶ下剋上の先駆けとされる名将尼子経久騎馬像です銅像の向きはおそらく毛利氏の本拠だった広島城を向いていると思いますゲーム信長の野望をプレーされた方ならご存知のように能力値が非常に高く実際に優れた武将だったそうです俗に言う田舎侍では無く主家である京極家の人質として京都に滞在していたらしく教養や知識を備えた文化人の一面もあったそうです西側にある洞光寺には父親清定と経久の墓があります広瀬地区近隣には尼子関連史跡として祖父持久、弟義勝、息子国久、興久、孫晴久、誠久、敬久の墓がありますので時間と興味のある方は訪れてみて下さい。
大河ドラマ毛利元就にて、緒形拳演じる尼子経久が幼少期の元就と鉢合わせに。幼少の松寿丸は枝の矢を尼子経久めがけて放つ。経久は枝の矢を掴みへし折りながら、「強弓がひけるようになったら戦場でまみえようぞ!」と言って颯爽と立ち去る。大河ドラマ史上に残る名演。しかし、緒形拳は代役で元のキャストは萬屋錦之介でした。「謀りごと多きは勝ち少きは負ける」後に中国地方の覇者となった毛利元就は尼子経久の生き様を受け継いだのかも知れません。
中国の名将尼子経久の像。ホントに凄い人なのに見物客は少ない。公園にポツんと佇んでいる。
めちゃくちゃいい場所!像と一緒に撮る月山富田城も最高!
毛利に破れちゃったけど、島根県では英雄です。
名前 |
尼子経久像 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0854-32-2767 |
住所 |
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評価 |
4.1 |
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尼子経久は、出雲国・守護代の尼子清定の嫡男として生まれ、父の代まで主家で出雲守護職の京極氏に従順だった尼子氏を独立した戦国大名にし、嫡孫の尼子晴久の代に尼子氏が8ヶ国の守護職(出雲・隠岐・備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆)になる礎を築いた名将です。毛利元就や宇喜多直家と並ぶ謀略の天才とも云われ、謀聖と称されました。その反面、家臣に対して非常に気を使う優しい人物でだったそうで、家臣が経久の持ち物を褒めると喜び、どんな高価なものでもすぐにその者にあげてしまうため、家臣たちは気を使って経久の持ち物を褒めず眺めているだけにしたという逸話と、冬には着ている着物を脱いでは家臣に与えていたため、薄綿の小袖一枚で過ごしていたという逸話があり、経久のことを天性無欲正直の人とも称されているそうです。またまたその反面、ケチとも言えるほどの倹約家だったそうで、家臣が瓜の皮を厚く剥くことを嫌い、自分で薄く剥いていたそう...何だかお茶目な武将です(笑)