高天神城跡の石牢で歴史を感じる。
大河内幽閉の石風呂(石窟)の特徴
高天神城跡に位置する大河内政局の石牢跡です。
幽閉された石風呂にまつわる歴史的背景が魅力的です。
アクセスも良好で、本丸跡からの道が分かりやすいです。
高天神城跡に有る石牢跡です。大河内と言う武将は高天神城が最初に武田に攻め落とされた時の徳川の軍監として派遣されてたそうです。約八年間閉じ込められてたそうです。
天正2年(1574年)、高天神城城主小笠原長忠が武田方に寝返るなか、ただ一人抵抗した軍目付大河内政局が幽閉された石牢跡です。天正9年(1581年)に家康軍に救出されるまで、なんと7年間もこの場所で頑張りました。
まず、大河内政局と書いて[まさちか]と読む。事前の下調べで[まさもと]と思っていたが、掛川大手門駐車場で頂いた「高天神城読本vol.01」によると[まさちか]である。漢字は「正局」とも書く。別名:正房である。通称は「源三郎」である。天正2(1574)年、高天神城が武田勝頼の猛攻により落城寸前となり降伏開城した時、勝頼の寛大なる処置により全て籠城兵は助命され、武田方に下り組するも徳川方に留まるも任意とされた。しかし、徳川方の軍監として入城していた政局は、三河時代からの家康の家臣で、家康の外祖母が政局の伯母にあたり、幼少期から家康の近習として仕えていたので、家康直属の家臣の誇りから、ただ一人開城に応じず、勝頼の怒りを買い石窟に幽閉された。それから何と7年後の天正9(1581)年、徳川方により高天神城は奪還され、政局は救出された。しかし、7年もの間どうやって生き続けたのか。案内看板によると武田方城番(後に軍監?)の横田尹松[ただとし、又は、ただまつ]が、政局の義に感じて密かに厚く持て成したとある。石牢幽閉と言えば、黒田官兵衛孝高が有名であるが、官兵衛は天正6年から7年の1年強、有岡城で幽閉されて足が不自由になったというから、政局の7年に及ぶ苦難たるや想像を絶する。因みに、この石窟は2010年の台風により上部が崩落し埋没してしまった。現在見るも無残な姿である。前回2009年に訪問した時の写真があるので2枚添付(最後の2枚)する。《2023.2.1訪問》
20年位前に来た時は中までみえましたが、土嚢で塞がれてます。
本丸跡から少し降りて北側の通路を東に進むとこちらにたどり着ける。しっかりと保存されていることが素晴らしい。
| 名前 |
大河内幽閉の石風呂(石窟) |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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封鎖されています。