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徳川家康や徳川秀忠は、上洛時に柏原の宿舎として在地の西村勘介の屋敷を利用してきたが、寛永11年(1634年)、徳川家光は上洛の際に柏原御殿を建立し、休泊所とした。街道筋は家並が続いて広い敷地が確保できないため、街道から少し離れた南の方に候補地が予定されていたが、神君家康公以来の宿泊所である西村家にするのが吉例であるとの老中の命で、西村家の敷地に御殿を建立することが決定。岡田善同と近藤与兵衛が御殿普請奉行として急ぎ建てられた。当初、自分の屋敷が御殿になることになった当の西村家は他所への引っ越しを申し出るが、西村家が代々宿泊の賄いを勤めてきたことが、これまた吉例であるとして、御殿敷地内の東に屋敷をもらい、これまでと同様に家光の上洛の際には賄方御用を命ぜられた。完成した御殿は間口42間(76m)に二つの門、奥行き38間(69m)、1225坪の大御殿だった。しかし、この御殿が建てられた寛永11年が家光最後の上洛となった。江戸に戻る時は東海道水口宿に建てられた水口御殿を利用したため、1回しか利用しなかったことになる。翌寛永12年には柏原御殿の一部解体が始まり、西村家が住んでいた屋敷も雪害で倒壊した。そして元禄2年(1689年)、残っていた建物も解体され、御殿で使われていた器材も全て入札売り払いされた。跡地は元禄3年に当初の持ち主である西村家に与えられたが、1800年代前半の地図ではもう空き地になっている。