歴史の宝庫、金沢柵址で癒しの散策。
金澤柵趾の特徴
後三年の舞台である城跡の土塁や兵糧倉跡を訪れる体験ができます。
歴史好きにおすすめで、平安の時代を感じさせる静かな雰囲気があります。
金沢八幡宮や兜八幡神社の立派な景観が訪れる人を魅了します。
2024.4.6の訪問。金沢柵は推定地として金沢城跡にあるとされ11世紀後半頃の清原武則の本拠地と言われています。中世時代の14世紀頃からは金沢城跡は武将達の居城になっています。城跡には本丸・二の丸・北の丸・西の丸や土塁・堀切などの遺構が確認できます。
とても静かで、八幡宮に行く参道の道が綺麗で癒されます😆金沢八幡宮も、とても立派で綺麗でした🥰八幡宮から左方向の、堀切?も圧巻です🥰また行きたいなぁ🤣
訪城前は古代城郭という印象でしたが、戦国時代にも使用されていたため思いのほか近代城郭で驚いた。
後三年合戦の決戦場。「壁が立っているようだ」と形容される急な斜面によって守られていた。身分の高い人物の存在を思わせる鉄製の鍋や墨書きの土器、格式の高い建物跡が発掘されています。清原家衡は叔父武衡と金沢柵で源氏を迎え討ちます。陥落し、源氏の勝利で終結します。義家は私戦を行ったのであるから論功行賞の必要はないというものであり、朝廷より何の恩賞も得られず、陸奥守を解任されます。
2021年5月5日に訪れました。寛治元年(1087年)清原家衡と清原武衡が籠る金沢柵を清原清衡と源義家の連合軍が囲み、吉彦秀武が兵糧攻めを進言して籠城戦となりました。城内の兵糧が尽き、家衡・武衡は、金沢柵に火を放って逃げ出しましたが、後に捕らえられて討ち取られました。後三年の役が終わり、清原清衡は、実父である藤原経清の姓を再び名乗り、藤原清衡となりました。藤原清衡は、出羽と陸奥を押さえ、奥州藤原氏の基礎を築きました。陸奥国守であった源義家は、この後三年の役を朝廷から私戦とみなされ、解任されました。源義家の嫡男である源頼朝は、後に奥州藤原氏を平泉で滅亡させます。後の世、津軽藩祖となる大浦光信の祖父、金沢家光は、この金沢城主でしたが、小野寺氏との合戦で文安2年1445年に討ち死にします。光信の父の金沢家信は、その当時3歳でした。家臣に守られて、岩手県久慈市に落ち延びました。金沢氏も南部氏一族です。金沢家信が、久慈で成人となり、大浦光信が産まれます。大浦光信は、延徳3年1491年に南部下久慈から青森県鰺ヶ沢の種里城に入り、安東氏と対峙することになります。
平安の風わたる公園を後にし、みずほの里ロードから回って来ました。周囲は急峻な崖。これが難攻不落の所以かと納得。ですが今、本丸に上がっても、いくつかの碑が立つほかは、草地が広がるばかりで何もありません。その代わり、合戦後に創建され、出羽国の鎮護神として祀られた金澤八幡宮が静かに佇んでいます。昭和58年に焼失し、根本だけが残る兜杉。凱旋時に源義家が自身の兜を埋めた際、清原(のちの藤原)清衡がそばに植えたものと伝わっています。付近に、納豆発祥の地という碑もありました。(2017.4)
案内板より、横手と平泉の深いつながり①藤原清衡は、清原清衡だった!世界文化遺産に登録された数々の遺産が残る平泉の町を建設したのは奥州藤原氏の初代清衡です。彼は平泉を建設するまでの前半生において2度の大きな戦いを経験しました。盛岡市などを主戦場とした「前九年合戦」そして横手市を主戦場とした「後三年合戦」です。「前九年合戦」では、頼義 義家父子らの源氏と横手市を本拠としていた清原氏が協力し、頼時(よりとき) 貞任(さだとう)父子ら安倍氏を絶滅に追い込みました。安倍氏側にいた清衡の母は、清原氏の軍勢を率いて戦った清原武則(たけのり)の子武貞(たけさだ)と幼い清衡を連れて再婚しました。そのため清衡は平泉に移るまでの約40年間、清原一族の人間として過ごすことになったのです。
案内板より、 横手と平泉の深いつながり①藤原清衡は、清原清衡だった! 世界文化遺産に登録された数々の遺産が残る平泉の町を建設したのは奥州藤原氏の初代清衡です。彼は平泉を建設するまでの前半生において2度の大きな戦いを経験しました。盛岡市などを主戦場とした「前九年合戦」そして横手市を主戦場とした「後三年合戦」です。「前九年合戦」では、頼義 義家父子らの源氏と横手市を本拠としていた清原氏が協力し、頼時(よりとき) 貞任(さだとう)父子ら安倍氏を絶滅に追い込みました。安倍氏側にいた清衡の母は、清原氏の軍勢を率いて戦った清原武則(たけのり)の子武貞(たけさだ)と幼い清衡を連れて再婚しました。そのため清衡は平泉に移るまでの約40年間、清原一族の人間として過ごすことになったのです。
はるか昔の跡を思い起こす史跡です。
名前 |
金澤柵趾 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
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後三年の舞台となった城跡内の、土塁、兵糧倉跡、本丸跡、金洗い清水、十六羅漢、北の丸跡、金沢八幡宮、兜八幡神社、兜杉を見た。三十三観音以外は見て廻ったが永い年月に居住武将の入れ替わり激しかった此の場所さらなる、発掘調査を必要な城址らしい。