松尾芭蕉が辿った象潟の道。
象潟の特徴
紀元前466年の鳥海山の噴火が築いた絶景、象潟の自然の美しさです。
松尾芭蕉も愛したきさかたさんぽみちで歴史を感じる散策が楽しめます。
1804年の地震で変わった水田の丘には、懐かしい風景が広がります。
山もあり海もある自然が好きな人にオススメな場所です自転車、山登り、釣り等‼︎
江戸時代までは松島のように、湾内に小島が浮かぶ名勝地だったがのちの地震で地盤が隆起してしまい島々は小山に、湾は田んぼに姿を変えてしまった。松尾芭蕉の奥の細道を読むと、この地で小島の風景を楽しんでいるが、現在の眺めとは大きく変わってしまった。ただ、興味深い地形であることに変わりはない。田んぼに水を入れる代掻きから田植えまでのシーズンには、ちょうど、水に小島が浮かぶようで、江戸時代以前の風景をほうふつとさせるというので、ぜひ訪れてみたいものです。
日本一周の時、近くの道の駅で車中泊。そういえば吉永小百合さんがJRのCMやってたなと思い出し、行って見た物の、地上ではわかりずらかったです。よく知らない人が車で入り込み、前もバックも出来ず立ち往生してました。狭い農道なのでご注意を。
電車から見て 面白い地形だなと思っていましたでもすぐに通り過ぎてしまうので道の駅に車を停めて 念願の徒歩での散策を楽しみました刈り入れの時期でしたので農作業を借景に整備されたコースをめぐりました車が入ってこれないので(農作業車除く)安心して歩けます欲を言えば田植えの季節のほうが 島巡り感が出たかもしれません。
説明板とか無いし、現地で見ても珍しさがわからなかった。
キサカタのいわれを知らないと、どこを見るのかわからないと思います。道の駅の展望台から俯瞰すると、地形がよく解りました。解説もありました。
2021/05/04に訪問。半分くらいの田んぼに水が張ってあったのでなかなか良い景色。島っぽく見えるスポット探し。
鳥海山の崩落と 土地の隆起によってできたそう。 面白い地形で展望台からの 一望も 見応えあり 。水田に水が張られた時期だともっと志摩らしく見えて良いでしょうね。 夏は稲穂が しっかりと 育っていたので、 最初何のことだかよくわからなかった。
歴史をさかのぼると、紀元前466年に鳥海山が噴火し山体崩壊が起こり、流れ山が日本海まで流れ込み、多くの小島ができた。その後に砂洲が発達し、内側に潟湖ができあがり、潟湖に小島が浮かぶような地形となった。松の木が生えた多くの小島が内海に広がる風景は、「九十九島、八十八潟」と呼ばれ、風流の勝地となった。平安時代中期に能因法師が象潟にやってきた。「世の中はかくても経けり象潟の海士の苫屋をわが宿にして」(能因法師)能因法師はこの有名な歌を詠み、そしてなんと、象潟の景色が気に入ったのかこの地に3年間も住んだそうだ。鎌倉時代初期に、西行が象潟を訪れた。そして次の歌「きさかたの桜は浪にうづもれて花の上こぐあまのつり舟」(西行)象潟の水面に散り広がる桜の花びらの上で舟を漕ぐというもの。そして江戸時代、能因法師と西行に憧れてやってきたのが松尾芭蕉。舟で島巡りに出掛け、真っ先に着いたのが能因法師が3年間隠棲していた能因島。その次は西行ゆかりの桜の老木を見学。芭蕉は象潟の風景を、憂いに沈んだ美女の面影に似ているとし、「象潟や 雨に西施が ねぶの花」(松尾芭蕉)と詠んだ。その頃の象潟は、悠然と裾野を広げる鳥海山を背景として、九十九島・八十八潟が広がっていた。江戸時代の紀行家である菅江真澄は「春来れば白桜の花影をうるおし、青松翠陰を落とす。佳興殊に甚だし。」「其の好景、東溟の松島と相い表裏す」(出羽日記)と記している。ところが1804年に象潟地震が起こり、象潟は隆起して陸地化してしまった。水田が広がる中にかつての小島が点在する現在の光景になった。明治時代に象潟を訪れた正岡子規は、「象潟は昔の姿にあらず、塩越の松はいかがしたりけん。」(はて知らずの記)と嘆き悲しんだ。
| 名前 |
象潟 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
0184-32-5588 |
| 営業時間 |
[日月火水木金土] 24時間営業 |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
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全体を見渡せる高台やタワーなんかがあるとすごい良い観光地になると思うんですが…道の駅よりもこっちを前面に出して欲しいです。