綺麗な園内と大手門の謎解き。
足利銀行壬生支店周辺にあった大手門の礎石がなぜここに⁉️の疑問は案内板の説明で解消した。😌隣には「箱根八里」の碑もある。2021年10月11日(月)に壬生町の街歩きで訪れた。案内板には以下のような記載●壬生城大手門の礎石この石は、壬生城大手門を支えた柱の礎石で、全部で五基 (移設したものは三基)が存在しています。 令和二年に初めて大手門の礎石と確認されました。石を保管していた町内、小林家・植竹家に伝わる話と、寸法や 形状などから、この石を壬生城大手門の礎石と考えました。ここに移設した礎石は三基とも縦・横・高さ八〇の大き で、石の三面には上部から面取りが施されています。他の二基は精忠神社唐門前にあり、寸法や形状が同じと ころから大手門の礎石であると考えられています。なお、柱を差し込むための柄穴の大きさから、門の中央にある主柱と考えられます。これほど大きな礎石が必要な建物を考えると、足利銀行壬生支店周辺にあった大手門のほかには考えられません。 元禄5(1692)年壬生城主となった松平輝貞は、壬生城大手口の大改築で、平屋の大手門を二階建ての櫓門に建て 替えました。 この大手口の姿は『壬生領史略』 (嘉永3年)に挿絵とともに「雪の止んだ朝、日光を反射する大手門の姿は格別の眺めだ」と大手門の雄姿が描かれています。この挿絵から、大手門を支える柱は、前面六本、側面二本 であり、この前面の六本の柱の礎石がここで紹介している石 であり、あと一基の礎石があったはずですが、その行方はわかっておりません。令和三年五月 壬生町教育委員会●「箱根八里」(箱根の山は天下の険)♪はこねのやまば てんかかけんかんこくかんも ものならず「箱根八里」は、明治34年3月東京音楽学校(現東京芸術大学) で編集された 「中学唱歌」に掲載された歌。 作詞は壬生出身で音楽学校教授の鳥居忱、作曲は明治期第一の作曲家として定評のある滝廉太郎である。「箱根八里」は 「中学唱歌」 のなかで人気が高かっただけでなく、 明治期を通して、 最も歌われた歌の一つである。
| 名前 |
壬生城大手門の礎石 |
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| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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今日行きました園内が綺麗でとても良かった。