亡き夫を偲ぶ御北の松の美しさ。
御北の松の特徴
長篠の戦いで亡くなった夫を偲ぶ松、於北様の歴史が息づく場所です。
雪景色の中で見る御北の松は、独特の美しさを楽しめるスポットです。
真田信綱の正室が植えた松、歴史を感じる貴重な史跡です。
雪景色の中で見る松の木も、なかなか良いものでした(゚-゚)!
御北の松(おきたのまつ)「長篠の戦い」で戦死した真田家二代信綱の正室が、亡き真田信綱を忍んで植えたと云う松です。植え継がれて樹齢は200年超えと推測される。因みに、真田幸綱の嫡男真田信綱(昌幸の兄)と正室の御北との間に生まれた娘は後に、真田昌幸(信綱の弟)の嫡男信幸(幸村の兄)と夫婦になる。いわゆる親戚同士の身内婚である。しかしその後徳川四天王のひとり本多平八郎忠勝の娘小松姫(稲)が徳川家康の養女となり、徳川家から真田信之のもとに嫁ぐ事になり、徳川家康と真田信之は義理の親子となる。
名前 |
御北の松 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.3 |
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真田家の二代目当主、真田信綱公の正室であった於北様が、長篠の戦いで亡くなった夫を偲んで植えたと伝承されているのがこちらの松。植替えられ今の樹は200年を越えているとの事で枝振りは一見の価値あり。ちなみに信綱公は真田信之(上田藩初代藩主)、真田信繁(真田幸村)らの父昌幸公の兄、つまり叔父さんにあたる。1575年、長兄の信綱、次兄の昌輝が長篠で没したため、当時、武藤を名乗っていた三男昌幸が復姓し真田家の家督を継承している。武田氏滅亡の後の信濃領地をめぐる昌幸、信之、信繁親子の活躍はご周知の通り、400年を超え真田一門の名が語り継がれている由縁の片鱗がここにもありました。さて、叔父にあたる信綱公と於北の方の嫡女(清音院殿)は、真田信之の正室になっているので「いとこ婚」となっている。当主を戦で失くした家中の混乱を避けるため、昌幸が家督相続の正当性を確保する意図をもって、長兄の娘を正室に迎えたとも考えられている。が、1587年、豊臣秀吉の命により真田は徳川の与力大名となるにつけ、信之は本多忠勝の長女稲姫(のちの小松姫)と婚姻することなるに伴い、正室であった清音院殿の立場はやがて側室待遇となりその姿を表舞台から消すことになる。