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| 名前 |
弁財天 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
犬を飼っていた時の散歩コースです。昔は、向かいに川に下りれる場所がありました。この町内は鉄砲町と呼ばれ、米沢藩の鉄砲隊達が住んでいた町です。桜の木の下に弁財天が祀ってあります。由緒書はありませんが、米沢市市立図書館に聞き取りした文章が残っています。個人宅で祀っていた弁財天でしたが、家主が引っ越したため、戦前は上郷地区(昔はこの通りから真っ直ぐ行くと上郷へ抜ける木造橋が掛かっていた)の阿部さんが管理していました。戦後、鉄砲町で管理するようになりました。元々は相良家(米沢藩士・相良人形宅)が花沢で焼物をはじめた時に、火防守護神としたようです。本尊は相良清左衛門厚忠作の木造とされ、台座は仏師・横山権六が造ったようです。本尊は例大祭(5月1日・9月1日)の時だけ石堂に安置されます。佐藤一族の菩提寺である常信庵の住職が祈祷をされるようです。また、隣町内にある虚空蔵尊の祈祷する成就院の護符や木札もあるようです。庚申塔が二つ並んでいます。銘は以下の通りです。①寛政12年(1801)下条氏、丸山氏、長壽院②天保6年(1835)小澤氏、宮崎氏、小野里氏、今井氏門柱の正面は劣化が激しく一部不自然に黒ずんでいます。背面は鉄砲町内中と読めます。黒ずみは、恐らく火事にあったか、意図的に燃やされて消されたものです。明治時代の神仏分離令による廃仏毀釈の被害にあったものと推測します。この弁財天の場所には今と異なる神仏習合のお堂があったのでしょう。江戸時代の資料をみるとこの辺に白山神社が存在していたようです。恐らく、元々は山岳信仰系の堂宮だったものと思われます。きっと、米沢藩の飯豊山信仰も根付いていたのでしょう。裏手の川は、久保町の清水から流れ出ていて上野町を通って、ここのすぐ近くの栗の大木(台風で倒木)がたっていた下花沢団地記念碑がある場所で、佐氏泉公園(駅前・旧花沢)から流れてくる川と合流して、弓町と六部花沢を通って羽黒川に注がれています。